![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/158598652/rectangle_large_type_2_f445abe774b896b453310c147eba28e3.jpeg?width=1200)
「評伝 中勘助」の執筆を終えて(35)
●「島守」より
中先生が弁天島にわたった日や島を離れた日の日付など、そんな細かい事情がどうしてわかるのかというと、中先生の「島守」という作品があるからです。パンフレット「ほほじろの声」に出ている藤木さんの記事も「島守」に取材しています。「島守」は昭和44年の弁天島の生活を記録した作品で、大正13年5月10日の日付で刊行された著作『犬 附島守』(岩波書店)において公表されました。
本陣さんという不思議な呼称の由来も「島守」に書き留められています。本陣さんの本名は池田さんというのですが、池田家はかつて御本陣だったとのことです。村も街道筋にあたって宿場町として繁盛した時代があり、本陣もありました。本陣というのは大名や旗本など、特定の地位にある人たちだけの宿泊所です。どのみち江戸時代のことで、中先生が滞在した明治の終わりがけにはもう本陣は存在しなかったのですが、「本陣」という通り名のみ、池田家の当主の呼び名になりました。
今、「村」と書きましたが、安養寺の所在地である現在の信濃町はかつては村でした。日本の地名表記はしばしば大きく変遷しますので混乱しがちなのですが、参考になりそうな資料として、中先生が明治44年10月23日付で安養寺の住職の藤木信西さんに宛てて書いた一枚のはがきが残されています。これは中先生が野尻湖畔を去って帰京してから書いた御礼のはがきで、宛先の住所は「長野県上水内郡信濃尻村字野尻」となっています。「信濃尻村」というのが当時の地名です。「しなのじりむら」と読むのでしょう。
このはがきの差出人の中先生の所在地は「東京市外千駄ヶ谷町871 那須利三郎方」と記されています。自分の家にはもどらなかったのです。文中に、「御地出発後途中群馬友人宅に二泊去る二十日帰京当家に仮寓仕候」とあります。弁天島の生活を切り上げて湖畔にもどったのは10月17日。翌18日に野尻湖に別れを告げて、上州群馬県で二泊した後、10月20日になって帰京したのでしょう。群馬県の友人というのはだれのことなのか、不明です。
このはがきを発見したのは藤木信滉さんです。昭和48年になって詩碑を建てることになり、それを機に父の安養寺住職の信英さんと二人して安養寺の古文書を探索したところ、中先生の滞在時の消息をわずかに伝えるはがきが一枚だけ見つかりました。
野尻湖は芙蓉の花の形をしていて、弁天島はそのひとつの花びらの中にあるのだそうです。中先生の「島守」の冒頭にそんなことが書かれています。弁天島は琵琶島というのが本当の名前のようで、その由来は何かというと、学期の琵琶の形に似ているからなのだそうです。これは「島守」に書かれているわけではなく、別の方面からの情報です。