「評伝 中勘助」の執筆を終えて(36)
・回想記(中勘助)
(昭和二十四年十月三日付、渡辺外喜三郎先生宛書簡より)
過日御申越の略歴大変遅くなりましたが左に、思い出すままに順序なく書きますから、適宜に取捨整理をして頂きます。由緒書きを焼いてしまひましたので凡て朧ろげな記憶によります。
父 中勘彌、天保十三年生、岐阜県今尾藩士。
兄 金一、明治四年生、たぶん今尾生れ。
勘助 明治十八年五月二十二日東京神田に生る。
ほかに姉二人、妹二人。
兄弟六人、金一が長男、勘助が次男といふことになつてゐますがそれは生きてゐた者の間のことで生後間もなくなくなつた者をいれると ― 戸籍面では ― 兄弟はもつと多く私も三男ぐらゐではないかと思ひます。
父は明治初年頃主家と一緒に東京に移りました。私の記憶に残つてゐるのは東京下町の家ですが最初はそこではなかつたやうです。たぶん有名な神田の大火事(註。明治14年1月に神田松枝町で発生した火災であろう。)で焼けて移つたのでせう。主家の邸内にゐたのを私の五つの時かに私と母の健康のためを主な理由として小石川区小日向水道町(小日向台、後の岩波邸)に家を新築して移りました。その後私と母の健康状態は際立つてよくなつたやうに思ひます。兄は独乙協会、第一高等中学校(一高の前身)東大医科(青山内科)卒業、間もなく独乙に留学、帰朝後直に九大教授、私は黒田小学校、四中(第一回卒業、その前は城北中学といひました)一高、東大国文科卒業、其後は著述のほか職をもちません。父は兄の九大在職中、私の大学二年頃延髄溢血、尿毒症で死去。其後私が卒業の間際に兄が脳溢血で倒れ、辞職。私は最初英文科に二年在学、国文科に転科二年在学の後卒業、実はなほ二年位何科かをやる予定のところ兄の発病のため計画中止、前後四年で大学を出、家の世話をすることになりました。私は卒業後一年志願兵として近衛に入隊病気のため除隊、当時の府下代々木の某家、上野寛永寺内真如院、千葉県我孫子の某家等に転々間借の独身生活を続けました。その間たぶん寺院生活の過度の簡易、偏食等のため病気、特に重症の脚気を起し療養のため毎年方々へ転地しました(当時は今のやうにいい療法がありませんでした) この脚気には、以後数十年悩まされました。兄の発病後その痴呆を重な中心として親戚を含めての家庭的紛糾絶えず度々衝突和解を繰返した後私の三十五、六才我孫子にゐる頃愈々最後的に家を引受ける(相続ではありません。世話。監督です)ことになりました。それによつて所謂家運は維持挽回することができましたけれども、紛糾は結局家人の死に絶えるまで続きました。私が五十八で結婚し、結婚式の当日兄がなくなるまで。その間殆んど嫂だけが親戚家族間における私の弁護者、庇護者、助力者、激励者等々でありましたし私もまた嫂に対してはほぼ同様な位置にあつたでせう。私は嫂のさとのはうにも非常な世話になつてゐるのです。さうしてそれらの事が一層紛糾を甚だしくしたのでもあります。この問題は併しさう簡単には説明できません。糸をたぐつてゆけば私の記憶のとどく限り、五つ六つ位の頃まで遡らなければならないのですから。只末の妹とは最もいい兄弟らしい感情をもち続けることができましたがこの妹は結婚後間もなく産後の病気の為私の代々木時代になくなりました。家に付ていへば私が最後的に家を引受けた時財政整理の為友人岩波氏に小石川の邸宅を買つてもらひ、(小石川には三十年位住みました)四谷、千駄ヶ谷と一、二年転々した後赤坂表町二ノ十三の親戚の家を譲り受け静岡県下へ疎開迄二十数年そこにゐました。但、疎開中戦火で焼失。その間家人の避暑避寒等の為神奈川県平塚に小さな家をたて私が住んでゐましたが、七、八年で売却、赤坂の家に同居しました。私は独立してさう困らずにくらせるやう自分の住む家と貸家二軒、ほかに多少の財産を父からもらつたのですけれど大学卒業後生活を束縛され煩はされることがいやで二束三文に家を売つてしまつたためその後はずつと随分簡易な生活をしなければなりませんでした。兄貴の世話になるつもりはなく赤坂へ同居後も食費は払つてをつたやうな訳ですから。確な記憶はありませんが経済的に余裕のできたのは結婚前数年位からではなかつたかと思ひます。それが戦災、敗戦でまた出直しになりました。現在は御承知の通家内のさとに同居、家内及その妹二人と家庭的に幸福にくらしてをります。今年六十五才。
著述に付ていへば、代々木にゐた時「夢の日記」を小宮豊隆君の紹介で「新小説」?に出したのが原稿書きの始まり、これは紹介者の小宮君は勿論夏目先生も面白いといつてゐられるとか人づてにききました。著書のどれかにいれてあります。次は「銀の匙」岩波文庫本の和辻哲郎氏の解説にあるとほり、二十七、八の頃の作。それから、我孫子時代、丁度家を引受けた頃「提婆達多」を出すまでの七、八年が身、心の非常な苦難時代、勉強する事も遊ぶ事もせず放心したやうな空虚?な月日を送りました。「提婆達多」に関しては当時何新聞かに和辻哲郎氏の好意的な評がのりました。同じく我孫子で「犬」「沼のほとり」。「犬」は特に野尻の島ごもりの随筆「島守」と一緒に一冊にして出しました。両者全く同じ精神でかかれたものであることを示すため。平塚時代「しづかな流」「菩提樹の蔭」、赤坂時代「街路樹」「母の死」「鳩の話」「逍遥」「蜜蜂」、詩集では「琅玕」「機の音」「海に浮ばん」「吾行かん」「大戦の詩」「百城を落す」「飛鳥」、静岡県疎開中「余生」「鶴の話」、帰京後「鳥の物語」。著者に付ては以上の通りですが作品に付ては年時が前後交錯してゐませう。必要ならお調べ下さい。
時代をいへば小学校、十、十一才位の時が日清戦争、高等学校二、三年、二十、二十一才位の時が日露戦争、上野真如院時代三十前後の時が第一次世界戦争、赤坂時代が第二次世界戦争、その時代時代で特色があり私への影響も色々ありますけれどそれ迄は書ききれません。
交友関係、その影響もある訳ですがなかなか面倒でちよつとにはかけません。併し大体に付ていへば私に何かの影響を与へた友人といへば高等学校以後の友人でそれ以前のは遊び友達にすぎません。あなたははうの「必要」の程度や範囲が充分はつきりわかりませんので長々と乱雑にかきました。必要な処だけおとり下さい。