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鷹原王(学校では教えてくれない日本古代史の教養マガジン)

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#古代史

聖徳太子の年表まとめ

新たな発見をしてください。 今回は、梅原猛氏の『聖徳太子』を参考にしてまとめてみました。参考図書です。 興味ない方も本だけチラっと 506蘇我稲目誕生(〜570) 538年仏教が公レベルで伝わった 545百済が欽明天皇のために丈六の仏像を造った 551蘇我馬子誕生(〜626) 552百済の聖明王が仏像・経論を献上し、蘇我稲目が向原の家を清めて寺とした。 570物部尾尾輿らが寺を焼き仏像と経論を難波江に流した、蘇我稲目が死去。 574(1)聖徳太子誕生(以後は厩戸王

三輪氏の系譜

まとめてみました。だいたいどの天皇のあたりの人なのかも書いてあります。 スサノオ(神武東征以前) 大国主(神武東征以前) 事代主(神武東征以前) 天日方寄日方命(神武天皇1代) 健飯勝命(綏靖天皇2代) 健甕尻命 豊御気主命 健飯賀田須命 大田田根子(崇神天皇10代) 大御気持命(崇神天皇10代) →→→(ここから三輪氏)→→ 大友主命(崇神天皇10代垂仁天皇11代) 志多留命 三輪石床 三輪身狭(安康天皇20代雄略天皇21代) 三輪特牛 ①

気になる物部の系譜

学校では教えてくれない、物部の系譜。大筋をまとめてみました。どうも物部の先祖が出雲進出?した時代は、神武天皇が東征のもっと前。その意味では、天皇家よりも歴史が古い、大和の「ええとこさん」と言えそうです。 饒速日命(神武東征以前) 宇麻志麻治命(神武1代) 彦湯支命(綏靖2代) 出雲心大臣命(孝昭5代) 大矢口宿禰命(孝霊7代) 大綜杵命(孝元8代、開化9代) 伊香色雄命(崇神10代) 物部十市根命(垂仁11代) 物部胆昨宿禰(仲哀14代) 物部五十琴宿禰(

厩戸王は母方が蘇我系譜。蘇我はどこから?

学校では蘇我血筋までは教えてくれない。そこで気になる蘇我系譜をまとめてみました。上から追っていってもらえれば「へえ」となるはずです。 上から順番に 孝元天皇(第8代) 彦太忍信命 屋主忍男武雄心命 竹内宿禰(景行天皇12〜仁徳天皇16に仕える) 蘇我石川宿禰(蘇我氏の祖)(大阪河内の石川に住う) 蘇我満智 蘇我韓子 蘇我高麗 蘇我稲目(宣化28欽明29)(近鉄大和八木駅から3キロ西の曽我神社の場所) ①→蘇我馬子(敏達30用明31崇峻32推古33)→蘇我

聖徳太子じゃないのか?

初期の日本仏教の真の功労者に迫る。信頼できる「ある本から」まとめてみました。 →ある本はこちらからご覧いただけます 本日の説仏教伝来は蘇我稲目、仏法再興ををしたのは蘇我馬子、経典の注釈と講説を行ったのは厩戸王(聖徳太子) 仏教伝来の蘇我稲目仏像や経典等を百済から日本に導入しました。しかし、無残にも疫病の責任を背負わされたあげく、仏像は焼き捨てられました。 仏法再興の蘇我馬子物部を撃破し仏教が初めに興隆されるきっかけを作りました。日本初の壮大な寺院である法興寺(飛鳥寺)

気になる隋文帝に派遣した理由(井上光貞氏)

なぜ倭国は100年ぶりに隋に使者を派遣したのでしょうか?「ある本の中から」オッと見つかったので、紹介していきたいと思います。 →ある本はこちらからご覧いただけます 気になった本日の説600年の初めての隋へ使いを派遣した理由は、隋の冊封体制が新羅にもおよんだから。新羅との任那問題の解決には新羅の主君となった隋文帝との交渉が必要になった。 根拠581年、隋が建国されたあと、朝鮮諸国の動揺を機ととらえて軍を筑紫に送り、新羅を威嚇して任那の検疫を回復しようとした。しかし、594

東西の天子②(東野治之氏)

日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。 少し違った記述が見られたので、東野治之氏の「ある本の中から」紹介していきたいと思います。 →ある本はこちらからご覧いただけます 本日気になった説 隋の煬帝が怒った理由は、全世界に1人しかいないはずの「天子」を、東方の野蛮人の国である倭の君主が名乗ったことである。 根拠「日出づる処」、「日没する処」は、『大智度論』という仏典から出た言葉である。隋の煬帝は熱心な仏教信者として、父の文帝と同じように菩薩戒を授かってい

聖徳太子が日本仏教の開祖になるまで(吉村武彦)

今日紹介するのは、吉村武彦氏の『聖徳太子』です。とても客観的に書かれた一冊だと思ったので、共有してみたいと思います。 学んでみたい方はこちらをどうぞ 本日の説『日本書紀』の段階では厩戸王子は仏教興隆上の歴史的人物ほどの評価はされていなかった。厩戸王子は傑出した仏教理解者であった。厩戸王子の死後、近親者から厩戸王子の神格化が進んでいった。初期の太子信仰が進展したきっかけは730年代(天平年間)だと考えられる。奈良時代後半から、多くの仏教説話集が編集された。『日本霊異記』『三

総持天皇?をご存知でしたか?(一条このみ)

「持統天皇非即位説」は、古田学派の方々の特徴的な論です。言い切ってくださった方が一条このみさんです。個人的に良いと思うところが多かったので、今回は『万葉の虹』をご紹介していきたいと思います。 教えてくれた書籍はこちら本日の説高市皇子=高市天皇=総持天皇は、持統天皇(天武天皇の皇后)へ、すり替えられていた。高市は「総持天皇」であり、持統天皇という天皇はいなかった。 総持天皇とも、高市天皇とも呼ばれている。 根拠(総持天皇について)(天武)死して子の総持立つ。『新唐書』日本

ちょっと意外な出雲の成り立ち(長浜浩明)

画期的な研究を成し遂げた長浜浩明氏が、真弓氏という学者の説を基本的に認めている。謎多き出雲の始まりの物語 教えてくれた本の情報はこちらから本日の説オオナムチの神は、なら大和の、三輪山の出雲から、製鉄技術を携えて、山陰の出雲に渡り、砂鉄が豊富な山間部から、勢力を伸ばした。従わない勢力を、征伐し、東出雲から西出雲を統合し、出雲大社に大国主(オオナムチ)を祀るようになった。オオナムチは物部氏(ニギハヤヒ)・尾張氏(火明命)の親神である。そして、神武天皇は、大神神社の神(オオナムチ

年代不明がわかるようになった(長浜浩明氏)

『日本書紀』の年代が不明、確定できない。だから、歴史教科書では教えません。でも、これで安心して古代史に取っつけるようになります。私の独自の視点からも見ていきます。 気になる本の情報はこちらから本日の説(抽出)BC70〜BC33(1)神武天皇。208〜241(10)崇神天皇。321〜350(13)成務天皇。411〜428(16)仁徳天皇。458〜480(21)雄略天皇。507〜534(26)継体天皇。593〜628(33)推古天皇。 根拠はるで一年あきで一年とカウントする「

厩戸王関連の年表

まとめてみた。 574年(敏達天皇三年)厩戸王子誕生(数え1歳) 587年(用明天皇二年)七月、蘇我馬子が厩戸王子らを率いて物部守屋を滅ぼした(数え14歳) 592年(崇峻天皇五年)摂津国難波に四天王寺を建立した 593年(推古天皇元年)四月、厩戸王は皇太子になった。(数え20歳) 594年(推古天皇二年)二月、推古天皇と厩戸王子と蘇我馬子が仏教興隆の詔を下した。(数え21歳) 595年(推古天皇三年)五月、慧慈(高句麗の僧侶)が厩戸王子の師となった。(数え22歳

まだ神格化されていない

厩戸王はまだ大したことなかった?厩戸王は仏教興隆の開祖ほどの神格化される人物になっていきます。しかし、645年の段階でまだ歴史上の人物ほど威厳はなかったことがわかる記述がありました。 645年「大化の僧尼詔」欽明天皇十三年に百済聖明王が仏法伝来と蘇我稲目を支援したこと。 敏達天皇の時代、蘇我馬子が仏法を信奉したこと。 推古天皇の時代、蘇我馬子が仏像を作らせ、僧尼が恭敬したこと。 ないですねえ厩戸王について720年完成の『日本書紀』でもまあまあ称賛していたのに、ここに来

私が古代史を研究する理由(葬儀の風習から)

多種多様な価値観が混ざり合っています。 古代史を研究することで、今の自分と今の世界をもっと客観的に見ることができるようになります。どの思想や風習が、いつのどこから来た価値観なのか、ハッキリとわかるようになります。もちろん、観光に役立ちます笑。 私のいう古代史とは主に紀元前から700年あたりを指しています。 殯りという風習からそのむかし、殯宮(もがりのみや)というものを建設していました。遺体を安置して殯りの儀式を行う仮設の建物のこと。死者を埋葬するまでの長い期間、遺体を棺