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鷹原王(学校では教えてくれない日本古代史の教養マガジン)

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各記事をまとめてみました
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2020年7月の記事一覧

「卑弥呼」の方が早かった!?

「漢倭奴国王」よりも早い?あれは57年だったはずなのに。「卑弥呼」の方が早い!? 今回のカラクリは、 歴史書が書かれた年代にありました? 整理タイム! そもそも 卑弥呼が書かれている歴史書とは『三国史魏志倭人伝』のことでした。 一方で、 「漢倭奴国王」の金印をもらったことが書かれている歴史書とは、「後漢書」のことでした。 書かれたのはいつだ?「魏志倭人伝」は3世紀末、280〜297年に書かれました。 『後漢書』は、5世紀中旬、432〜445年に書かれています

倭が新羅から嫁?!をもらっていただと?

倭国王、使を遣わし、子の為に婚を求む阿飡急利の女を以て之に送る。第二、訖解尼師今三年三月(312年4月) →西暦312年4月、倭国王は、外交使を派遣し、子供を授かる為に、新羅に通婚を要求してきた。新羅国第16代王の訖解尼師今は、第六等官の急利の娘を、倭国王に差し出した。 拝みて、阿飡急利を伊飡と為す。第二、訖解尼師今五年正月(314年2月) →314年2月(旧正月)、新羅国第16代王の訖解尼師今は、第6等官の急利を第2等官に昇進させた。 衝撃的な通婚倭国側が通婚を要求

倭の出身だと??の新羅王がいた?

脱解は、本、多婆那国の所生なり。其の国は倭国の東北、一千里に在り。第一、脱解尼師今即位前期(新暦57年よりも前) →(新暦57即位より前)新羅第4代王、脱解(57〜80)は、婆那国(タバナ)の出身である。婆那国(タバナ)は、倭国から北東に千里いったところである。 倭国と好を結び、交聘す。第一、脱解尼師今三年五月=新暦59年6月 →新暦59年6月、新羅第4代王、脱解は、倭国と外交し修好を交わした。 倭人、木出島を侵す。王、角干羽烏を遣わして、之を禦がしむ。克たずして、羽

ホンマに?倭と新羅はむかし戦争してたのか?!

はい。ガンガン記述が残っています。 121-123年の倭と新羅の戦い 倭人、東辺を侵す。 第一、祇魔尼師今十年四月=新暦121年5月『三国史記』 →新暦121年5月、倭人は新羅の東側へ攻撃を行った。 大風、東より来る。木を折り、瓦を飛ばす。夕に至りて止む。都の人、訛言す。倭兵、大いに来ると。山谷に争い遁(のが)る。王、命じて、伊飡翌宗等に之を諭止せしむ。 第一、祇魔尼師今十一年四月=新暦122年5月『三国史記』 →新暦122年5月、新羅の首都慶州に、大嵐が東からやっ

倭人を招待?ナゾの記念式典を追う??

竹嶺を開く。倭人、来聘す。阿達羅尼師今五年三月=新暦158年4月頃 →新暦158年4月頃、新羅の第八代王の阿達羅尼師今は、忠清北道丹陽郡と慶尚北道栄州郡の間に、竹嶺の道を開設した。倭人が来訪した。 倭国と相い・・・・・嶺・・・・・。 王暦第一、第八阿達羅尼叱今条『三国遺事』倭人伝 →(新暦158年4月頃?)(新羅の阿達羅尼叱今は?)、倭国と会合し・・・・・(竹?)嶺・・・・・。 GoogleMapより引用 阿達羅尼師今とはだれ? 新羅の第八代王(154〜184)

実は平均気温は一定ではない??気候区分で時代をわける?

温暖な時期、寒冷な時期は繰り返す。 古気候学に基づいた時代をまとめてみた。明確に記載されている場合は、そのまま書きました。多くは、「年前」で表記されてるので、-2000年してBCを付けた、単純な置き換えです。ご注意あれ。その他、便宜上「〜寒冷期」「〜温暖期」と付けたり、してわかりやすくしています。古気候学で教科書レベルまで確定させた底本となるような教科書はまだないのです。ビジュアル的でないので、途方もなくとっつきにくい。今後の発展を期待しています。 参考:『地球全史スーパ

気になる??お茶伝来より前の生活?

お茶がなかったら?なんて想像したことありませんか? 白湯なんです。ようは、単なるお湯です。 お茶以前の文化残っていました!興味深く思ったので、書き記したいと思います。 お茶とは中国から伝来したオチャのこと。 伝来の文章弘仁6年(815年)「大僧都である永忠が、近江の梵釈寺において、嵯峨天皇に茶を煎じて献上した」『日本後記』を現代語訳した 永忠は、805年に最澄のお世話役をしていた方です。最澄は天台宗比叡山の開祖です。永忠は、最澄とともに日本に帰国しました。宝亀年間(

倭人飢えるって??押し寄せられた新羅?

北東アジア大寒波襲来だったのか?!飢餓に苦しむ、ヤバイ記憶! 四月。京都雪・深さ三尺。夏五月。大水。山崩十余箇所(『三国史記』伐休尼師今九年四月=新暦192年5月)京都とは、新羅の首都慶州。三尺≒69cm(23×3古代中国の長さから計算) →新暦192年5月、新羅の首都慶州は大雪に見舞われた。深さは70センチ近くに上った。新暦6月は、豪雨洪水があり、山崩が数10箇所で発生した。 倭人、大いに餓う。来たりて食を求むる者千余人なり。(『三国史記』伐休尼師今十年六月=新暦19

なんだって?倭国と大和が手を組んだ??

本当ですか?大和王権と北部九州倭国が手を組んだ!?だと? 九州王朝理論とは古田武彦氏が提唱した説で、北部九州の地域に九州王朝があったとする説です。中国の歴史書に出てくる倭国とは、北部九州の連合国家のことであり、近畿のことではないのだと。 一元史観と多元史観王朝は日本書紀によれば一つだけだが、しかし、複数の王朝がかつて存在していたとなります。学校で教えられる日本史は基本的に日本書紀の仏教伝来時代からスタートします。それ以前は中国の歴史書に頼りますので、その時、倭とは日本のこ

教えて?縄文弥生の分け方

初見者中堅者泣かせなのでまとめてみた。 ○縄文草創期(約1万3千年前〜約1万年前)≒BC1万1000年頃〜BC8000年頃 ○縄文早期(約1万年前〜6千年前)≒BC8000年頃〜BC4000年頃 ○縄文前期(約6千年〜5千年前)≒BC4000年頃〜BC3000年頃 ○縄文中期(約5千年〜4千年前)≒BC3000年頃〜BC2000年頃 ○縄文後期(約4千年〜3千年前)≒BC2000年頃〜BC1000年頃 ↓ここから異説アリ↓ ○縄文晩期(約3千年〜2300年前)≒

朝鮮海峡を渡った??鍛冶屋と商人たち?

家電もなかった時代。どんな生計をたててたのか? 北部九州〜朝鮮半島での鉄北部九州の倭人らは鉄資源を求めて壱岐対馬を経由し、半島の鉄の生産、取引を行っていました。 克明に書かれています“国出鉄、韓濊倭皆従取之“  (弁辰)国は鉄を出す。韓・濊・倭は皆従い之を取る。“ 鉄とは鉄は国を支える最重要の金属です。鉄は農業で使う桑だったり、武器に使うことができます。なかったらと考えるとギョッとします。 なんとかこうにか生きていくいつの時代も人は生計を立てるのに必死です。生きなくて

鮎釣りはいつから??歴史書に発見?

鮎釣りを見つけた。いつだ?今も昔も変わらないね。変わったらこわーい。 現代の鮎釣り鮎釣りは現代、5月後半から6月遅くは9月まで行われている。 6月初日から漁が解禁され、て大勢の人々が鮎釣りにやってくる。 『日本書紀』の世界今回散策していた『日本書紀』の箇所は、神功皇后。神功皇后の時代は、350年ころから390年らしい。(天皇にカウントされている) 時期は?鮎釣りを神功皇后は四月にしたとしている。この四月は旧暦の四月で、現代でいうと5月か閏年が近くなると、6月に若干被る

頭入らない??倭の五王おしえて?

倭の五王はナゾ満ちている。 倭の五王一覧①倭王讃 ②倭王珍 ③倭王済 ④倭王興 ⑤倭王武 血縁関係①倭王讃 ②倭王珍     ③倭王済 ④倭王興 ⑤倭王武 彼らについて有名なお話は、近い血縁関係がない薄いということが一般的に言われています。血縁関係で区分するとこうなります。 血縁関係+兄弟分け ①倭王讃(兄)と②倭王珍(弟)    ③倭王済(父親) ④倭王興(兄) ⑤倭王武(弟) 大きな断絶②倭王珍(弟)   ③倭王済(親)の間で大きな断絶がありますが、これが血縁

朝鮮半島にもあった??倭国の国?

朝鮮半島の南には倭国のエリアがあったと言われています。 歴史書を見てみると中国の歴史書、三国史韓伝に、弁辰瀆盧国(現在の東莱郡)は倭と界を接すと書かれています。 東莱郡(釜山周辺)は釜山のあるエリアのことで、界を接すような位置にあるエリアは洛東江を挟んだ西側にある金海市になります。みんなご存知、空港がありますよね。金海市はかつて金官国と呼ばれ、また、倭国側からは任那とも呼ばれました。中国の歴史書でいくと、狗邪韓国とされています。 発音は違った?ちなみに、狗邪韓国は音を写