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倭人飢えるって??押し寄せられた新羅?

北東アジア大寒波襲来だったのか?!飢餓に苦しむ、ヤバイ記憶!

四月。京都雪・深さ三尺。夏五月。大水。山崩十余箇所(『三国史記』伐休尼師今九年四月=新暦192年5月)京都とは、新羅の首都慶州。三尺≒69cm(23×3古代中国の長さから計算)

→新暦192年5月、新羅の首都慶州は大雪に見舞われた。深さは70センチ近くに上った。新暦6月は、豪雨洪水があり、山崩が数10箇所で発生した。

倭人、大いに餓う。来たりて食を求むる者千余人なり。(『三国史記』伐休尼師今十年六月=新暦193年7月)

→新暦193年7月、倭人(金海市居住か??)は大飢饉に見舞われた。新羅領土に侵入し食料を求める者が数千人にも及んだ。(助けを求められても新羅も食料なんてあるわけないやろな)


蝗蟲起。百姓大餓。布糧食亦尽。(『魏志』武帝紀 後漢興平元年四月=新暦194年5月)

→新暦194年5月、イナゴの虫害が発生し、後漢(洛陽長安)の国民らは大飢饉に見舞われた。皇帝(献帝)は食料を施すも尽きてしまった。

一斛五十万銭。人相食啖。白骨委積。帝使侍御史候汶出太倉米豆為飢人作縻粥(『魏志』武帝紀 後漢興平元年六月=新暦194年7月)

→新暦194年7月、穀一斛が五十万銭もした。後漢の国民らは食い合った。白骨が積み上げられ、皇帝(献帝)は侍御史の候汶に命令し、太倉の米豆を出させた。飢えた人々のために粥を作り配り

秋七月。堕霜殺穀。民飢。開倉賑給(『三国史記』高句麗本紀 故国川王十六年七月=新暦194年8月)是歳。

→新暦194年8月、霜が降りて成長途上の穀物が壊滅したため、大飢饉が起こった。皇帝(献帝)は倉を開いて食料を支給した。


なぜそんなにも寒くなったのか?

太陽活動がこの時期顕著に弱くなっています。太陽活動の低下による寒冷化です。古墳時代の始まりと寒冷時期がある程度連動しているので、古墳寒冷期とも呼ばれています。

どんな気象条件?

慶州にドカ雪が降るということは、強い寒冷前線が発達したということ。

5月て遅くないですか?

確かに遅い。ただ、寒冷化しているので、寒気がシベリアから降りてきやすい環境になっていたのかもしれないです。だから、季節外れの大寒波が朝鮮半島を通って日本までやってくると、温度差がすごいので嵐になるばかりか、雪は上空5500メートル付近マイナス20°cになるので、地表になると0°cあたりの気温になります。

6月は洪水ですか?

大雪ですぐに1ヶ月後洪水なので、気温変化があり得へんことになっていたでしょう。冬場に多い寒冷前線のタイプでは山が崩れるほどの大雨にはなりにくいです。つまり6月の洪水は間違いなく梅雨前線によるものです。

梅雨前線なんでそんなに雨降るの?

慶州で梅雨前線となると、梅雨前線が慶州あたりに移動したということ。日本は南の風で晴れ。南から湿った空気が大量に送られてきたことが想像されます。2020年7月は九州で豪雨災害がありました。それが慶州であったということです。192年当時は気温に比例せず、海面水温はまだ高かったということが考えられます。海の温度は下がるまで時間がかかります。日本や東シナ海近辺の海面水温が高かったからこそ、5月の大雪の水分を供給したと考えると海面水温はつじつまが合います。

イナゴはなんで発生するの?

寒気と暖気のせめぎ合いで雨が多かったからでしょう。生育環境がたまたま整って大繁殖したようです。後漢なので、洛陽や長安のあたりの記憶が残りやすいです。イナゴは移動しますので、イナゴの発生源は南寄りの可能性があります。長江流域で雨が大量に降って、イナゴが大量に発生し、北にも移動した。こう考えるとつじつまが合います。

まとめ

はいどうでしたか?ヤバイ記述がたくさん出てきましたね。

192年からとんでもない気象状況です。今現代に起こったらどうなることやらと感じます。

150年過ぎたあたりから変な状況だったみたいです。概ね150年あたりから290年代くらいまでは、寒い時代が続くそうな。寒いと言っても極端に寒かったり、極端に暑かったり極端に雨や雪が降ったり、嵐になったりです。

古気候学と社会はほぼ完璧に連動するので本当に楽しい。今回はその一端が見えたお話でした。

今回は中国の歴史書も含めてしまいました。こういう時もあるさ。

今後具体例を数々列挙していきます(入力大変汗)

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参考文献

『三国史記倭国伝』岩波文庫


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