気になる??お茶伝来より前の生活?
お茶がなかったら?なんて想像したことありませんか?
白湯なんです。
ようは、単なるお湯です。
お茶以前の文化残っていました!興味深く思ったので、書き記したいと思います。
お茶とは
中国から伝来したオチャのこと。
伝来の文章
弘仁6年(815年)「大僧都である永忠が、近江の梵釈寺において、嵯峨天皇に茶を煎じて献上した」『日本後記』を現代語訳した
永忠は、805年に最澄のお世話役をしていた方です。最澄は天台宗比叡山の開祖です。永忠は、最澄とともに日本に帰国しました。宝亀年間(770〜780)の初めに唐に留学に出発したので、当時の、都は平城京だった。日本に帰ってくるのが805年なんで。お!ということは!
あらま〜帰国したら都の場所が変っちゃってましたとさ。
感想
く〜なんか生々しい笑
そして
815年永忠は嵯峨天皇にお茶を献上するのです。
これが日本史に出てくる初めてのお茶の記述です。
天皇が飲まれたということは
僧侶以外でお茶を飲んだのは嵯峨天皇が初めてということです。なぜかというと、僧侶の持ち帰ったものは、やすやすと一般公開にはしないでしょうから。超上級国民しか情報もらえないでしょうね。中国からお茶持って帰りましたwやったーみたいなことにはならないわけです。
お茶育てるのに時間がかかる
お茶の樹をイチから育てなくてはなりません、ですから805年から815年まで10年かかったのでしょう。日本の気候風土の中でふさわしい場所を探していた。これは0からのことなので、途方もなく苦労があったことでしょう。
そして、お茶栽培がなんとか軌道に乗ったところで、
紡ぎ出した物語
京都の、嵯峨天皇の耳にこのように入ったことでしょう。
「白湯をお持ちしました、陛下」「おお、ありがとう」「陛下、それが、お茶が栽培できたそうですよ」「なんだね?お茶?それはいかなるものか?!」「は、あの大僧都永忠が唐から持ち帰ってきたとのこと。どうもあちらの国で飲まれているようで、味に優れ、香りもたいそう優れた飲み物とお聞きしております、陛下」「ほう、面白い。では、その永忠とやらを早く呼んで参れ。お茶とかいうものを拝見させていただこうではないか」(一体どんな代物なんやろなあ)
「永忠、そなたが、お茶というものの栽培に成功したのか?」「仰せの通りでございます、陛下。」「では、早速作ってまいれ」「かしこまりました」「陛下、お茶でございます。」「おお、なんと香織高く、味深い。素晴らしい。もう一杯たのもう。」「仰せの通り仕ります」「ふーむ、やはり、素晴らしい。よし皆の者にも振る舞ってやれ」「かしこまりました、陛下」
たった一文の歴史が鮮やかに蘇りましたね。
お茶以前に飲まれていたもの
お茶以前とは白湯です!これがお茶以前に飲まれていたものです。ええ?そうなんです。
お寺で
古いお寺では参拝者信者に今でも出しているところがあります。
なんとまあ化石のごとく残っていたとは!ああ素晴らしい。
文化は新しいものができ古いものも残る
文化というものは新しいものが入ってきます。そして、古いものも残り続けます。2020年現代でいうのなら、音楽配信サービスとCDでしょうか。まだCD残ってますもんね。
長い歴史の中でも、古いものは化石の如く残り続けるものです。もちろん、なくなってしまうものもありますけれどもね。
日本では新しいものと古いものが混在して、多種多様な文化が出来上がってきましたとさ。
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