物語の感動はだれのもの?【エッセイ】
昨日、観たくもない映画を観た。ありきたりな物語。病気の彼女と、それを支える彼氏のラブストーリーだった。家族が観たいと言うので、僕が入っているサブスクをテレビに繋いでやったのだ。僕も暇だったので、なんとなく眺めることにした。
設定も展開も、これでもかというほど典型的だった。最近人気の若手女優が主演をしていたことを考えれば、仕方ないとも言えなくない。そんな映画が、面白いわけがない。
主人公の女の子が病気で亡くなって、生前の手紙が読み上げられる。彼女の声の裏には、ピアノバラードのBGM。最近の僕は、涙もろい。
耳が熱をもっているのが分かる。視界はぼやけて、ラストシーンを見逃してしまった。別に観なくていいか。身体が感動を実感しているのとは裏腹に、脳の方はこの物語を冷静に分析していた。この映画は、つまらない。
そう。この映画は、つまらないのだ。それなのに、僕は泣いた。仕方ないじゃないか。人が亡くなるのは悲しいに決まってる。
ああ、そうか。僕は、ひとつの考えに辿り着いた。「感動=面白い」ではないのだ。あくまで僕のなかでは。
フィクションには、面白さが求められる。当然、ジャンルによって面白さは違う。ホラーは怖さ、ミステリーは謎解き、アクションは爽快さ、などなど。
お涙頂戴系の物語において、面白さとは感動だ。全米が泣いた。ハンカチ必須。泣けば泣くほど良い作品らしい。僕はそういう物語が大嫌いだ。
騙されてはいけない。僕らが感動するのは、その物語に対してではなく、自分の物語に対してだ。
僕の大切なあの人が、死んでしまったらどうしよう。そう思うことによって、心が揺さぶられる。
だから僕は思うのだ。人の死で感動させるのはずるい。それならノンフィクションでいいはずだ。本能的な感情を物語の力だと偽っているだけじゃないか。
泣ける物語を書けるからといって、その人が上手いわけじゃない。これは僕の意見に過ぎないけれど、物語の力を僕は信じたいのだ。
僕はどうやら、構造的な物語が好きらしい。抽象化したブロックを組み合わせたり、並び替えたり。そうやって、現実ではできないことを表現することで、現実を見つめ直したいのだ。
このことを分かってくれる人はいるだろうか。いないのなら、僕には物語をつくる才能もなければ、必要もないのかもしれない。
仲間がいることを願って、僕は涙を拭った。