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『すべてがFになる』の、すべてが”嫌”になる。

 最近、人気のある有名な小説を意識的に読んでいる。もともと僕は売れている本にあまり興味はなく、むしろ避けているとも言えるのだが、読んでみないことには優劣がつけられない。そんなわけで、森博嗣『すべてがFになる』を手に取ったのだ。

 これは小説の紹介ではなく感想であるため、必然的にネタバレは避けられない。そもそも感想を読もうとするのは既に読んだ人であるのだから気にすることもないかと思ったが、念のため注意しておく。

 面白くない小説にも、良いところはある。この小説について言うならば、それはトリックだろう。プログラムが中心にトリックが構成されているのだが、題名にもある”F”が鍵になってくる。簡単におさらいすると、Fとは16進数における最大の数15であり、すべてFになった時に時限装置が作動するのだ。

 情報系の学部に所属している僕は、普段からプログラムや16進数に親しんでいるので理解するのも簡単だったし、それゆえ一段と面白く感じた。しかも書かれたのがかなり前だというのだから驚きだ。また、ミステリーとしてリズム良く展開される物語は、テレビドラマのようであった。実際、テレビドラマとして放送されたらしい。観てないけど。

 しかし、この面白さを台無しにするものがある。それは、モテすぎることだ。この小説の主人公は、西之園萌絵と犀川創平だと言えるだろう。冒頭から、西之園が犀川に対して特別な思いを抱いていることが読み取れるわけだが、物語が進むにつれ、明らかにはしないものの、それが恋心だという確信に近付いてゆく。それに対して犀川は鈍感な様子で相手にしない。もしくはかっこつけているとも言えるかもしれない。それだけにはとどまらず、最後の図書館のシーンでは、真賀田四季すらも犀川に好意を寄せているような描写があるのだ。

 主人公が特別にモテるというのは、小説においてよくあることだ。僕はそういう作品に対して嫌悪感を抱くものの、作品全体の評価にはそれほど影響しない。この作品はそうはいかなかった。注目すべきは、作者の肩書きだ。森博嗣氏は、異色の経歴の持ち主として知られている。

森 博嗣(もり ひろし、1957年〈昭和32年〉12月7日 - )は、日本の工学者・小説家・随筆家・同人作家。工学博士(名古屋大学・論文博士・1990年)。元名古屋大学大学院環境学研究科都市環境学専攻助教授。

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 お気づきいただけただろうか。最後の三文字、助教授。そして、犀川創平も助教授である。自分と同じ職業としてキャラクターを描く時、意識せずとも自己を投影してしまうのが普通だ。森博嗣氏も、自身の経験を生かしながら物語をつくったのだろう。このことに気がついた時、僕は吐き気に襲われた。

 助教授が書いた小説の主人公が助教授で、その教え子が恋心を抱いている設定にした。さらに、事件の犯人からも好意を寄せられる。これほど気持ち悪いことがあるだろうか。僕が大学生であるからこそ気になったのかもしれない。僕は本を床に叩きつけ……ることはできなかった。図書館で借りた本だったのだ。この小説にお金を払わなくて良かったのがせめてもの救いだった。

 僕はなるべく小説の批判をしないようにしている。小説というのは読み手中心であるから、どこかにその本を大切に思っている人がいると思うと、批判を伝えることがためらわれるのだ。しかしながら、今回ばかりはそういうわけにはいかなかった。この事実を多くの人に知ってほしい。知るべきだ。そう思ったのだ。

 万が一、僕の今回の考えについて間違っていることがあったなら、ぜひ教えてほしい。この作品についての誤解が解ければ、僕にとってもさらに面白い作品になるだろう。

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