承認欲求のコスパ
先日『苦手の正体』という記事を書いたのですが、
『苦手』と言えば、承認欲求。
これを読んでいる方の中にも、
承認欲求が強い人間は苦手だ!と
感じている人もいるのではないかと
思います。
この嫌悪感にも、『欲しい』と『ダメだ!』の
ブレンドが少なからずあるのではないかと
思います。
承認欲求は、誰しも
当たり前に持っているもので、
社会的生き物である人間が
『自分は社会に受け入れられている』
『必要とされている』ということを
確認できるサバイバルツールでもあります。
なので誰でも欲しいと思うのは
当たり前のものなのですが、
問題は、承認には
自分を満たしてくれるものと
満たしてくれないものがあり、
自分を満たしてくれない承認ばかり受け取っても
全く満たされないだけでなく
受け取った瞬間だけの一瞬の安心や興奮に
依存するようになってしまうことです。
自分を満たしてくれる承認欲求は、
一度受け取ると一定時間持ちますし、
しばらく時間が経っても
思い出すことで自信を取り戻せたり、
暖かい気持ちになれたりします。
しかし自分を満たしてくれない承認欲求は、
受け取った瞬間は過度に感情を揺さぶられ、
そして長持ちせずに比較的すぐに消えてしまう上に、
思い出しても自信を取り戻せたりもせず、
沢山受け取っても感覚が麻痺していくだけで
満たされることがありません。
ではその違いが何なのか、と考えたのですが…
『その承認がちゃんと自分に向けられている、
という実感』
のあるなしだと思ったのです。
どういうこと??と思った方も
いるかと思います。
子供が絵を描いています。
自分で素敵な絵が描けた!と思った子供は
大人に褒めて欲しくて見せにいきます。
そこで大人がじっくりとその絵を見て、
素敵な絵だね、と言うと、子供は
『自分を理解し、受け止めてもらえた』と感じ
絵を描くことの楽しさを学びます。
自分の『好き』『素敵』だという感覚が
受け入れられたと感じた子供は、
頻繁に承認が得られなくても
沢山楽しんで絵が描けるようになりました。
けれどもしここで、
『どうしてここをオレンジで塗ったの?
ここは赤でしょ』とか、
『もう少しこうやってみるといいかもね』
なんて言われると、大人に悪気はなくても
『自分が素敵だと思ったもの』が
『この世界ではそんなに素敵ではないもの』
だと子供は学んでしまいます。
そこで子供は、他の子供の絵が褒められているのを
目にします。
その子供の絵は、自分のものより写実的で、
正直子供の好みではなかったのですが、
その真似をして描いてみると、
今度は大人が『上手くなったね!』と
褒めてくれました。
子供は嬉しくて、
もっと写実的な絵を描くようになります。
けれど、実際のところ、自分の描いている絵の
どこがいいのか、子供にはイマイチわかりません。
子供は段々、写実的な絵を描くことは
承認を得るために必要な労働なのだと
感じるようになってしまいました。
ちょっとイマイチな例だったでしょうか。。。
ともあれ、言いたかったことは…
自分の本音をポロリと口に出した時に
『わかるよ』と言ってもらった一言は
それから何年も、時には何十年もその人を支えることに
なることがありますが。
自分の本音では無いことを言って、
何万人に『心に響きました!ありがとう!』
と言われても、その喜びは
すぐに消えてしまったり、
どんどんと麻痺していって
いくら受け取っても
嬉しくなくなってしまうのではないか、
ということです。
仕事や、創作もそうですが…
自分ではイマイチだな、
と思ったものが褒められて、
それで沢山お給料や承認を得るようになると、
自分の感覚が信じられなくなっていくんですよね。
自分では良いものかよくわからない。
だから、それが受け取る承認でしか
自分の仕事を評価できない。
それって、とても怖いですよね。
仕事をしていても、
価値のあるものを作っているという
満ち足りたものがなく、
仕事を終えた後の
報酬や、承認、それらのためだけに
自分の人生を切り売りしている。
そうなったら、
承認に依存してしまうのも
当たり前ですよね。
自分の感覚に従った仕事をしていると、
承認を得られなくても、
『これでいいんだ』と思える。
自分の感覚がしっかりしているから、
例え大衆に受けなくても、
自分はこれが好きなんだ。
この仕事がしたかったんだ。
と笑って言える。
そしてその感覚を共有できた
数少ない人たちと、
かけがいのないつながりを感じることができる。
でも、ここまで読んで、
その『自分の感覚』が
よくわからないんだけど。
自分がやりたいことを
やっているのに、
満たされないんだけど…
という方も多いと思います。
なので次は、もうちょっと深掘りして
いきますね。
いつも読んでくださって
ありがとうございます。
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