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ケアとテクノロジー|真鍋大度氏の個展「Continuum Resonance:連続する共鳴」

大阪・梅田に開業したギャラリー「VS.」ではオープニングエキシビジョンとして、真鍋大度氏の個展が開催されています。「PolyNodes」と呼ばれる立体音響ソフトウェアを応用したインタラクティブなメディアアートを体感してみれば、過去との連なりの先に未来のケアが見えたように思うのです。

 大阪・梅田はグラングリーンの一角に生まれた文化装置「VS.」。安藤忠雄氏が監修したという建物は、その立地も手伝ってか、東京・六本木の「21_21 DESIGN SIGHT」に似た佇まいをしている。しかし、エントランスへと続く階段を降りてみれば、ギャラリーというよりもクラブハウスのような雰囲気に驚かされる。スタジオと称される3つの展示スペースは広さも形もそれぞれで、その場を借りるアーティストやディレクターの創造性を刺激するに違いない。オープニングエキシビジョンを担う真鍋大度氏も当初の構想を変更して、新作を持ち込んだという。おかげで私たちは立体音響ソフトウェア「PolyNodes」の作り出す、テクノロジカルな世界を堪能することができる。

 真鍋大度氏の個展「Continuum Resonance:連続する共鳴」というタイトルから思い描くものは、それぞれに共鳴するいくつかの作品の連なりである。では一体、何と何の共鳴を観せてもらえるのだろうか。最初のスタジオに入ってすぐに、私たちは自らが捕捉されていることに気付く。壁面に映しとられた私たちの姿かたちは数値化され、まもなく3次元空間内にプロットされていく。大まかな位置だけではない。それが自分たちであることが一目瞭然なほどの高い解像度で描き出されれば、人と作品との共鳴に期待が募る。このインタラクティブな表現が以降の展示を通奏することになるだろう。続く2つ目のスタジオでは、大音量で鳴り響く無機質なシーケンスが私たちの動きに連動する。

 立体音響とは、鑑賞者が認識する音の発生場所や状況を人工的に制御するものである。位置だけでなく、音の質や響きを操作することで、私たちを本来とは違った場所へと誘ってくれる。しかし、繊細な私たちの脳を騙すためには微妙な調整が求められるのだろう。今回の作品では事前に与えられたスタジオの空間特性に加え、その場で測定された鑑賞者の位置情報に基づき、「PolyNodes」のパラメータがリアルタイムで操作されるという。歩き回っても音場は変わらない。中央にはいつも忙しく動き回る何かがある。壁面に投影される3Dビジュアルも相まって、未知の生物の体内にでもいるかのような感覚に襲われるのだ。これを心地よいと感じるかはその人次第。追い立てられるように部屋を出ると、3つ目のスタジオへと続く空間において、退廃とした世界が展開されている。

 朽ちてしまったかのようなビジュアルの残像。それでもコンソールモニターに映る私ちは直方体のボックスで囲われ、相変わらず捕捉され続けていることを認識する。誰が、何のために。真鍋大度氏が多大なる影響を受けたという現代作曲家ヤニス・クセナキス(Iannis Xenakis)氏の思想を実装したものが「PolyNodes」だったとすると、レジスタンスとして祖国に追われ続けていた氏の心が図らずしも表出してしまったと捉えるのは考え過ぎだろうか。少なくとも、作品と共鳴する私の目にはそのように映る。氏の作品が数字を頼ることで感情を排したアプローチを取るものの、鑑賞者の動きをフィードバックとしたことで共鳴を巻き起こしていると思うと面白い。

 「われわれは、石器時代からの感情と、中世からの社会システムと、神のごときテクノロジーをもつ」という生物学者エドワード・オズボーン・ウィルソン(Edward Osborne Wilson)氏の言葉を引いて、これからの利他のあり方を説くのは哲学者・近内悠太氏である。近著『利他・ケア・傷の倫理学』(晶文社、2024)において、進化のプロセスの中で置き去りになっている私たちの心は互いにケアすることによってのみ維持されると述べる。それぞれが大切にするものの違いが争いを生んできた歴史を振り返り、他者が大切にするものを自らのそれよりも優先することを利他として意識する。そのためには嘘も厭わない。カフカのエピソードを例にとれば、物語が人の心を救うこともあると分かるのだ。だとすると、立体音響やVRといった錯覚が紡ぐストーリーがあってもよいだろう。

 3つ目のスタジオにて、私たちはいよいよ捕捉から解放される。15mの高さまで広がる壁面を使って表現されるビジュアライゼーションの中で、実際のダンサーの動きをトレースした人形がまるで音を操るかのように踊り続けている。それは決して救世主的なものではなく、自分自身の理想像に感じられる。あんな風に踊れたら楽しいだろうな。なるほど、自らを捕捉し、直方体に閉じ込めていたものが自分自身だったのだと気付かされるだろう。「オドルンダヨ。オンガクノツヅクカギリ」。村上春樹氏の『ダンス・ダンス・ダンス』(講談社、1988)を引用し、ウィトゲンシュタインが定義するところの「言語ゲーム」を続けることを訴える近内氏の論は、セルフケアに及ぶ。「間違い」によって手や足を止めることが、言語ゲームという名の不毛な現代社会からの退場を意味するのであれば、間違いなんて存在しないのだ。もっと自由に踊り続ければよい。

 他者どころか、自らの大切なものすらも分からない私たちは、テクノロジーが示す統計的なアイデアに生きるヒントを求める。しかし共鳴すべき相手はデータではなく、それを作るアーティストやクリエイターや、あるいは同じ作品を見ている鑑賞者なのだろう。「Continuum Resonance:連続する共鳴」は過去からの連なりによって語られる。今をフィードバックに過去を変えることができるならば、もう少し明るい未来が見えると思うのだ。

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