美的実在論にふれてみれば|AZUSA IIDA氏の個展
つい先日のこと。アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)氏の作品に著作権侵害の判決が下された。マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)ら著名人のポートレートをポップに飾った同氏の代表的な作品群の一つ、「プリンス・シリーズ」がモチーフとなった写真を無断で盗用していると判断されたのだ。オリジナル写真の著作権は、プリンス(Prince)を撮影したリン・ゴールドスミス(Lynn Goldsmith)氏にある。当時、雑誌「ヴァニティ・フェア(Vanity Fair)」の依頼により、正式なライセンス契約に則って制作された作品が『オレンジ・プリンス(Orange Prince)』(1984)だったというけれど、ウォーホル氏は他に15点もの別バージョンを創作していたのだ。同氏の生前に世に出ることはなかったこれらの作品は、もしかするとただの試作なのかも知れない。ところがその価値を世間が放っておくわけもなく、作品を受け継いだ財団が新たなビジネスに仕立て上げてしまったのだ。売却やライセンシングなど、数億ドルとも言われる利益の一部には、リン・ゴールドスミス氏の貢献が認められて然るべき。財団にとっては欲を出すべきではなかったという教訓になったのだろうか。
争点は「フェアユース(公正利用)」にあった。米国の著作権法(1976年改正法)は、例えば、研究・調査・批評を目的とした著作物の利用において、必ずしも著作権者の許諾を必要としていない。同じように、アート作品においても、元の作品には存在しない新しい意味やメッセージを加えることで、全く別の新しい創作物を作りだす「変容的利用」であればフェアユースとして認められる。しかしその基準は曖昧だ。芸術的評価を門外漢の裁判官に委ねれば当然に混乱も起こる。実際、今回の裁判を巡っても、フェアユースを認めた連邦控訴裁判所での判断を覆しての珍しい最高裁判決だった。過去には「花」シリーズに対しても同様の訴えがあり、アンディ・ウォーホル氏が利益の一部を撮影者に還元することで和解したケースもある。しかしこれは著作権法が改正される以前の1966年。あれから50年以上が経って、司法的判断が変わるのかと思いきや、結局は変わらなかったという微妙な状況が面白い。なぜなら、時代はデジタルに振れている。思わぬ形で自身の著作物が参照される可能性はどんどんと増えている。
アンディ・ウォーホル氏が他者の著作物をモチーフとした手法は「アプロプリエーション」と呼ばれている。大量消費社会を批判するためにマスメディアからの引用を躊躇わず、一方で自身の作品はシルクスクリーンにて大量生産を試みた。その思想がアートからデザインへの橋渡しを叶えたのだろう。ポスターに限らず、Tシャツやら、マグカップやら、ウォーホル氏の作品ほど日常的に見かけるアートは他にない。その風景を例えば誰かが写真に撮って別のアート作品として仕上げたとしたら、批評の批評はフェアユースとして認められるのだろうか。もしそうではない場合に、ウォーホル氏が参照した写真の著作権者まで遡って利益は還元されうるのだろうか。デジタル技術が複製を容易にする中、議論は尽きることがない。画家のリチャード・プリンス(Richard Prince)氏は「New Portraits」シリーズとして、他人のSNS投稿を無断で作品に取り込み、複数件の訴訟を起こされている。氏曰く、「アプロプリエーションと著作権侵害の境界がどこにあるかを試そうとしたものだ」とのこと。
背景にはアートの価値の問題が横たわるだろう。伝統的な美的構築主義が、アンディ・ウォーホル氏という一流のアーティストが創り上げた作品であればすべてに高い価値をつける。一方で、例え一点物だったとしても、商業デザインに類するものはそれ相応にしか扱われない。もちろん私たち素人がSNSに投稿する作品には値段なんてつかない。この市場資本主義の当然に対して、哲学者マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel)氏は美的実在論を以って抵抗する。著書『アートの力』(堀之内出版、2023)によれば、どんなに優れたアーティストも作品を観る人の感情を思い通りにコントロールすることはできない。どれほど強い意味やメッセージを込めたとしても、その捉え方は鑑賞者次第であるし、そもそも観てくれる人がいなければアートは成立しない。だとしたら、アートは作り手によって生み出されるのではなく、受け手によって見い出されるものだろう。それはすなわちアート自体が自律した存在であることを意味する。その価値は人がどのような基準を設けたとしても、一意に定まるものではないのだ。不定としか言えない。
この度、天王洲のMU GALLERYにて個展「SPACE METROPOLITAN」を開いたアーティスト・飯田梓(Azusa Iida)氏のポップな作品を鑑賞すれば、その意味を実感する。ギャラリーの中で魅力的なポージングの女性に上目遣いで覗き込まれるのだから、そこに込められたメッセージを読み取りたいと思う。明るくもあり、力強くもあるけれど、どこか儚い。これだけジェンダーが取り沙汰される時代に、どうしたって自由な女性像を想起させられるだろう。これが街の中であれば尚更だ。飯田氏は様々な商業ブランドとコラボレーションすることで、デザインとしての作品を残してきた。ファッションだったり、ショーウィンドウだったり。そう、そこにあるアートとは偶然に出会って、受け手が何かを感じ取ることによって成立するという美的実在論を体現しているのだ。だとすると、ギャラリーに飾られた作品も、街の一角を彩る作品も、同じように価値を持つと分かるだろう。
違いは、買うことができるのか、できないのかに集約される。個人や組織が独占的な所有権を主張する美術品は買うことができるから、市場で高い値段がつけられる。街中のデザインは手に入れられないか、あるいは値崩れするほどに大量生産されていて、独占できない。マルクス・ガブリエル氏が言うところの、権力がアートを支配しているのではなく、アートが権力を支配しているという構図が見えてくるのだ。なるほど、そろそろ貴重な作品の独り占めを防ぐタイミングなのかも知れない。アートは資本であってはならない。ただ私たちが作品から得た影響を適正な価値として作り手に還元できる仕組みが必要なのだろう。おそらくNFT以外のテクノロジーがヒントになる。そして、もしもこの難問を解くことができたとしたら、著作権に関する訴訟も減ると思うのだ。