「自我」なんて存在しない。自分への執着との向き合い方【多田修の落語寺・粗忽長屋】
浅草寺の門前に行き倒れの遺体があり、身元がわからないので野次馬がいろいろなことを話しています。その行き倒れを見た八五郎、「熊の野郎じゃないか! 今から本人を連れてくる」と言って、熊五郎の家に行きます。
八五郎は熊五郎に「こんなところで何やってるんだ! お前は浅草で死んでるだよ」と力説し、2人で浅草に戻ってきます。熊五郎は遺体を見て「間違いない、俺だ」と泣き出し、2人で遺体を運びます。すると熊五郎、「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺は一体だれだ?」。
落語だけでなく現実でも、周りから見れば明らかに間違っているのに本人は「これが正しい」と思い込んでいるのは、よくあることです。人はいったん「これが正しい」と思い込むと、それを変えるのは至難の業だということです。
この落語のオチで、熊五郎は自分の存在について自問しています。私たちは「揺るがない確固たる自己」が存在すると思いがちです。しかし仏教的に考えれば、自分の存在とはあやふやなものです。仏教の教えでは、自分とはさまざまな影響を受けて変化するから「確固たる自己」は存在せず、「今はとりあえずこの状態である」という仮の(一時的な)姿に過ぎません。これが「無我」です。私たちがとくに執着するのは、自分の存在です。
だから無我を完全に理解すれば、あらゆる執着を離れます。これが悟りの境地です。では、自分の存在について怪しくなっている熊五郎は、はたして悟りに近づいているのでしょうか(違うと思います)。
多田修(ただ・おさむ)
1972年、東京生まれ。慶應義塾大学法学部卒業、龍谷大学大学院博士課程仏教学専攻単位取得。現在、浄土真宗本願寺派真光寺住職、東京仏教学院講師。大学時代に落語研究会に所属。
※本記事は『築地本願寺新報』に掲載された記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。