親鸞聖人による「別れの歌」の碑も【第23回】箱根神社(神奈川県足柄下郡箱根町)〜最終章・前編〜
現地ルポ
親鸞聖人が42歳で配流先の越後から常陸国笠間(現在の茨城県笠間市)の稲田草庵に拠点を移された時のことは、『親鸞伝絵』に「隠居したまふ」という表現がとられていますが、実際、当時の人々の平均寿命(42歳前後といわれる)を迎えた親鸞聖人は、隠居のつもりであったかも知れません。
しかし関東での聖人は、その健脚を生かし、水路も使いながら、方々へ伝道に赴かれます。そして聖人は還暦を迎えた1232(貞永元)年の頃、これはさすがに隠居とお考えになられたのかはわかりませんが、帰洛の途につきます。
箱根・芦ノ湖手前の甘酒茶屋付近にある「笈の平」には、聖人が門弟の性信と別れた際に詠んだ歌の碑があり、また芦ノ湖畔の箱根神社には『親鸞伝絵』に後述のエピソードが残されています。
また、かつて箱根神社が「箱根権現」と呼ばれていたのは、神々は仏・菩薩が衆生利益のために権(かり)に現れた姿、という考えから。箱根権現は社と金剛王院東福寺から構成され、さらに「親鸞堂」と呼ばれる建物も存在していたといいます。親鸞堂に安置されていた法宝物は、廃仏毀釈の際に近くの真宗大谷派・箱根山萬福寺に受け継がれ、そのうち阿弥陀如来像は現在まで受け継がれています。
ご旧跡紹介
親鸞聖人ご一行は帰洛の途中、箱根権現(現・箱根神社)近くの人家で神官のもてなしを受けた。聞けば神官は仮眠していた夢の中に権現(神)が現れ、「私の尊敬している客人がこの道を通られるので、心を尽くして特に丁寧におもてなしをしなさい」と告げたという。
また、旧東海道沿いの笈の平には、聖人に同行していた性信らに対し詠まれた歌「病む子をば あずけて帰る旅の空 心はここに 残しこそすれ」の碑がある。聖人は東国門徒をいまだ病の癒えぬ子に譬え、性信らに教化を託し、生まれ故郷に向かうのだった。
旅ある記
星 2022(令和4)年4月から始まったこのご旧跡めぐり欄は、親鸞聖人が越後から関東にご移動されてきて長く拠点とされた茨城県を皮切りに、関東のゆかりの地を巡ってきたわけですが……。
藤 西へ西へと進んできて、とうとう芦ノ湖畔までやってきましたよ。というわけで最終章前編、箱根神社です。
星 ここは神官が霊告を受けて親鸞聖人を歓待したとされる地ですが、法然聖人のもとでの兄弟子・聖覚法印が箱根権現の管理をしていた関係で親鸞聖人が訪れたのかも知れませんね。
藤 あり得ますね。それから旧東海道沿いにある笈の平も見逃せません。
星 親鸞聖人が性信房と涙、涙のお別れをしたという石碑が残っていましたね。我々の連載も読者の皆さまと涙、涙のお別れです。
藤 まだ「最終章・後編」があるんだけどね。
星 テレビドラマによくある、終わると言いつつなかなか終わらないアレですか?
(藤本真教・星顕雄)