人生は努力次第。でも、そう言われる苦しさもある
京都でタクシーに乗ったところ、降車の時に運転手さんから、
「四つ葉のクローバー号、ご乗車記念です」
と、カードとシールをいただきました。それを見た私は、
「嬉しい! この車、そうだったの!」
と、大喜び。
このタクシー会社のトレードマークは、クローバーです。車の上に乗る、いわゆる行灯にもクローバーが描いてあるのですが、普通の車は三つ葉のクローバーであるのに対して、四つ葉のクローバーが描かれた車が4台だけ走っていて、それが「四つ葉のクローバー号」なのでした。同社の約1300台のタクシーの中の4台ですから、確率は約0・3パーセントということになります。
私はタクシーと記念写真を撮り、いただいたカードとシールを大切にしまいました。何かいい事ありそう!……と、気分が上がります。
この「四つ葉のクローバー号」は、非常に良い顧客サービスのように私は思います。ほとんどコストをかけずに、私のような者を大喜びさせることができるのですから。
私は、いわゆるクジ運が良い方ではありません。ビンゴでも福引でも、バッとしたものが当たった試しはなく、子供の頃、アイスクリームの棒に書いてあったのは「はずれ」ばかり。ですから京都におけるタクシーの「あたり」がものすごく嬉しくて、ついはしゃいでしまったのでした。
「あたり」の嬉しさとは、努力せずして幸いが舞い込んできた、という喜びです。何となく乗ったタクシーが四つ葉のクローバー号だったり、何となく食べたアイスクリームの棒に「あたり」と書いてあったりするから、幸いが舞い降りてきた気分になる。「あたり」を得るため、ひたすらタクシーに乗り継いだり、アイスクリームを食べ続けたりしたならば、それは努力の結果としての幸せであり、また違う喜びなのではないか。
源氏物語を読むと、「さいわい」、つまり「幸い」の意味が、あの時代と今は異なることがわかります。努力して獲得するものではなく、玉の輿のようにたまたま降ってきたものこそが、女性にとっての「幸い」だったのです。
努力しようにも術がなかった、と言うこともできましょう。勉強や仕事に力を注いで成功を手にする道は閉ざされていた、昔の女性達。だからこそ「幸い」は、自分で手に入れるものではなく、他人から与えられるものだったのです。
対して私は、自分の努力で「幸い」を得られる時代に生きています。それはとてもありがたいことではあるものの、たまに「全てが努力次第」ということが苦しくなることも、あるのでした。何か不満があっても誰のせいにもできず、「自分の努力不足のせいでしょ?」となるのですから。
だからこそ私は、たまたま四つ葉のクローバー号に乗ったことが、ものすごく嬉しかったのでしょう。何ら努力していないのに、タクシーの神様がふわりと四つ葉のクローバーをもたらしてくれたのであり、まさに僥倖でありご褒美、という感じ。
「はずれ」を引き続けている人にとって、滅多にない「あたり」は、このように大きな喜びをもたらしてくれるのでした。射倖心が刺激されすぎるのはよくないけれど、たまに努力と関係のない部分で良いことがあると、「また頑張ろう」と思えてくるのです。
酒井順子(さかい・じゅんこ)
エッセイスト。1966年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経てエッセイ執筆に専念。2003年に刊行した『負け犬の遠吠え』がべストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『処女の道程』(新潮文庫)など。