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大切な人の死を受け入れるには 眠れない夜に効く、仏さまの話
仏教徒ではなくても、眠る前に仏教に触れて、心を落ち着かせてから眠る。そんな人々を「ナイトスタンド・ブディスト」と呼びますが、近年、このような習慣を持つ人が増えています。モヤモヤを抱えて眠れない夜に、仏さまのお話をお届けします。
死の悲しみに寄り添う
人生のなかで誰もが死別の悲しみを経験します。家族や親類縁者、親しき友や恩師の死。そのことが、わが人生に影響を与えることもありますし、死をすぐには受け入れることができずに苦しみ悩むこともあります。
先日ご法事を勤めたあと、その苦しみを語ってくださった方がいました。「今春、一番の親しかった友が突然亡くなりました。今でもその友人のことを想うと胸がドキドキして苦しいのです。今日の『死はすべての終わりではない』というお話を聞けて、少し気持ちが楽になりました」と。
時に、死別や喪失などの体験した人の悲しみや痛みに、寄り添い、立ち直っていけるようなことが必要なのだと思います。
泣けない悲しみ
東日本大震災で、兄を亡くした方が、三か月経ってからの葬儀を勤めた時、泣けない苦しみを教えてくれました。「川崎と石巻で離れて暮らしていて、ここ数年会っていませんでした。兄があのとき津波に飲み込まれ亡くなったことは頭では理解しているのですが、現実のことなのかどうかが受け止め切れてなく、涙が出てこないのです」と気持ちを正直にお話してくださいました。そのとき私は、泣けない苦しみがあることを初めて知りました。
人は、合理的に考えていることと、合理的には考えていない部分、理屈ではないものの両方を持ち合わせているのでしょう。しばしば、頭では理解していても、身が受け入れることができていないことがあるのだと思います。両方を渡してくれる架け橋が私たちには必要なことがあるのです。私は、その架け橋の役割をしてくれるものの一つに宗教があり、法話や儀式儀礼などを通して理屈ではなく身が引き受けていけることがあるのではないかと考えています。
キサーゴータミーの話
キサーゴータミーという母親がいました。一歳ほどの息子を失い、悲しみに打ちひしがれ、息子を生き返らせ、治す薬を求めて釈尊のもとを尋ねます。釈尊は一人も死人が出たことのない家から白いケシの実をもらってくるようにと言います。町中の家々を尋ねたキサーゴータミーは、私は今まで、自分の子供だけが死んだのだと思っていたけれど、町中を歩いてみると、死者の方が生きている人よりずっと多く、死はどこの家にもあることに気づかされました。
そこで釈尊は、死という避けられない根本問題と向き合うべきことを教えています。息子の死を通して、キサーゴータミーは自分自身の人生の問題に目覚めていったのでした。
以前は、お葬儀の後、七日、七日で仏事を行いお勤めをしていました。いまでもそのようにしている地域やお寺があります。私が住職を務める寺院では、葬儀の際に初七日法要も合わせて行い、あとは、四十九日に法要を行っています。本来は、初七日、二七日か、三七日……とお勤めをしていくことであったのですが、その意味にはグリーフケアの意味があるのだと思います。七日ごとのお勤めは、かけがえのない人の死を徐々に受け止め受け入れていくための時間であったのだと思います。
宮本 義宣(みやもと・ぎせん)
1962年川崎市生まれ。大学卒業後、企業で広告デザインの仕事に就く。その後、結婚を機に自坊の髙願寺に戻り、2005年住職を継職。武蔵野大学通信学部講師、東京仏教学院講師などを務める。
※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。