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絵巻物で知る、親鸞聖人の足跡【親鸞聖人関東絵伝(前編)】

関東絵伝とは

 今回の特集は、関東における親鸞聖人の伝承を描いた掛幅画が(『関東絵伝』と呼称します)をご紹介いたします。このような絵伝は、主に北関東を中心とした歴史ある寺院に伝わり、本山・本願寺から頒布される絵伝とは異なる伝説・縁起がえがかれ、近世後期から近代期にかけて成立しました。
 関東絵伝には、本山・本願寺の正統な親鸞伝とは異なる神秘的な要素や鬼神邪霊を教化する物語が含まれています。絵伝によっては所蔵先寺院の伝承を色濃く反映させたものがある一方、関東全域の伝承を幅広くまとめた絵伝も存在します。

 絵伝に示される物語やその伝承にまつわる宝物は、観光メディアとして機能し、生き生きとした聖人像を広め多くの参拝者を惹きつけました。また、こうした絵伝を分析することによって、民衆たちに親鸞聖人がどのように語り継がれてきたのかということが伺い知れるのです。


 本特集では様々な関東絵伝の中、左記寺院に所蔵されている関東絵伝について3号連続でご紹介いたします。
 
本特集で登場する寺院
・西念寺(坂東市辺田)真宗大谷派
・無量寿寺(鉾田市鳥栖)本願寺派
・願牛寺(常総市蔵持)本願寺派
・大覚寺(笠間市大増)本願寺派
 
西念寺所蔵 絵伝 其ノ壱
坂東市辺田にある西念寺には数多くの宝物が伝えられています。その一つであるこの絵伝は関東地方全域にわたる様々な伝承を集約しているという特徴があります。


枕石寺縁起 雪中の親鸞

倉田百三の戯曲『出家とその弟子』で多くの人に知られることになった「枕石寺縁起 雪中の親鸞」は古くから親鸞聖人の伝承として親しまれてきました。

常陸国をご教化されている途中に吹雪に遭った親鸞聖人、一夜の宿を求めて日野左衛門という武士の家の門を叩きます。

しかし、「樹の下や石の上を宿とするのはお釈迦さまの弟子である出家した者のならいである」と断られてしまい、仕方なく屋敷の軒下で石を枕に一夜を明かすことにしました。
すると、床についた日野左衛門の枕元に観音菩薩が現れ、「門前に阿弥陀如来がおられるので、今教えを請わねば永遠に迷いの世界から逃れられない」と告げます。驚いた日野左衛門は親鸞聖人を家の中へ招き教えを請うと、その教えに感激しすぐさま弟子となりました。

そして、親鸞聖人から入西房道円という名前を賜って後に自宅を寺とした、と伝えられています。

親鸞聖人が枕とした石。毎年 報恩講(11月)に一般公開

報仏寺の身代わり名号

無慈悲で荒々しい性格であった平次郎という人物が、親鸞聖人の門弟となった経緯を伝えているのがこの「報仏寺の身代わり名号」の伝承であり、この平次郎こそ『歎異抄』の著者となった唯円といわれています。

平次郎の妻は念仏を疎かにする夫の留守を見計らって、親鸞聖人から授かった十字の名号に香花や灯明を供えて念仏を称える日々を過ごしていました。
ある日の夕暮れのこと。平次郎が帰宅すると、何やら妻が独り言を述べています。それは、夫の不在時に称えていた念仏だったのですが、男性からの恋文を読んでいると勘違いした平次郎は、逃げる妻を追いかけ斬り殺します。その後、遺体を竹藪に埋めて家に戻ってみると、不思議にも自分が斬り殺したはずの妻が平次郎を出迎えたのです。

平次郎は今目の前で起きた出来事を妻に語り、ともに竹藪に赴き遺体を埋めた土を掘り返してみると、そこには袈裟がけに斬られ血潮に染まった名号が現れました。それはかつて妻が親鸞聖人から授かったものでした。この出来事をきっかけに平次郎は改心し、有難い念仏者になったと伝えられています。

柳島の由来 般舟石と明星天子

この伝承は『親鸞聖人正統伝』等の高田派の書物に記され、高田派・専修寺を親鸞聖人とゆかりのある聖跡としています。

下野国芳賀郡大内庄柳島(栃木県真岡市高田と推定される)という所に出向き日暮れを迎える親鸞聖人ですが、周りに人家も宿もありませんでしたので、一枚の石にうずくまり念仏しておりました。

すると、夜空に星が輝こうとする時刻、柳の枝と白色の包み物を持った天子(明星天子。天子とは彼岸に住む童子のこと)が現れ、この地は六角堂等に並ぶ仏教の霊地であり、「ここに樹を植え伽藍を立てよ」と述べ、手に持つ柳の枝と菩提樹の種を親鸞聖人に授けます。明星天子のお告げに従い、柳の枝を水田にさし、菩提樹の種を平石の南に植え、親鸞聖人はそのまま石に座して念仏三昧の境地に入ります。

すると、一夜のうちに二つの樹は二十余尺(二十尺は約6メートル)ばかりに成育し、沼だった所の真ん中が盛りあがって堅固な地盤をあらわしたので、その場所を「高田」と名づけられたと伝えられています。

真仏寺のお田植歌

国道123号線をはさんだ、水戸市消防局北消防署飯富出張所(茨城県水戸市飯富町)の向かいの細道を200m進むと、田畑の中に柵に囲まれた大きな石碑が見えます。ここは、親鸞聖人が飯富の真仏寺へ来られた時、農民の田植えにまじわりこのような歌を教えられたと伝えられています。
 
五劫思惟ノ苗代ニ、兆戴永劫ノシロヲシテ、
一念帰命ノタネヲオロシ、自力雑行ノ草ヲトリ、
念々相続ノ水ヲ流シ、往生ノ秋ニナリヌレバ、コノミトルコソウレシケレ
 
この歌を聞いた農民たちは、はじめて聞く阿弥陀如来の尊さに歓喜したと伝えられています。


霞ヶ浦・如来寺の由来 水底の阿弥陀如来像

親鸞聖人が常陸の国に入ってからのこと、霞ヶ浦の湖中に怪しい光が現れ、そのため漁獲量が減り漁師たちは生活に困り嘆き悲しみました。

すると、白髪の老人が湖中に浮かんだ木の上に現れて浮島にあがり「自分は鹿島明神であり、明日、稀代の名僧が通るので、あなた方が頭を抱える湖中で怪しく光る物体についてその名僧に相談し、この天竺から渡来した名木である浮木をその方に献上するように」と漁民に告げます。その稀代の名僧こそ親鸞聖人です。

そのお告げに従い懇願する漁師たちの願いを聞き受けた親鸞聖人は、この光の正体は仏像であるので引き揚げましょうと仰せられます。その仰せに従い、漁民たちは親鸞聖人とともに網を投げ念仏とともに引き揚げると、それは光り輝く阿弥陀如来のご尊像でした。

これを喜んだ親鸞聖人は、草庵を建てこの阿弥陀如来のご尊像を安置します。さらに鹿島明神から寄進された栴檀という香木で聖徳太子の像を作り安置して、村民たちに教えを広めました。この草庵は「霞ヶ浦の御草庵」といわれ、長年出入りされたと伝えられています。

喜八阿弥陀堂の由来
与八の妻の亡霊

本伝承と無量寿寺の女人往生の伝承には、小石一つにつき経文を記していくという供養の方法が見られますが、これは当時流行した曹洞宗の葬送儀礼が関連しているのではないか、とも言われています。

与八の妻は難産にて命を落とすのですが、塚に埋葬したその夜から幽霊が現れ、その泣き叫ぶ声に村民は怖れをなしました。与八はこのことを悲しみ種々に手を尽くしますが効果なく、一族はいよいよ悲しみを深くしました。
時に、親鸞聖人が鹿島へお越しになった際、ことの事情を話すと小石を集めるよう仰せられます。仰せを受けて村民たちが小石を集めると、親鸞聖人は三部経を残らず小石に書き写した後、その小石を塚に埋めるよう告げ、お立ちになりました。

そのご指南に従って小石を塚に埋めた夜のこと。与八並びに一族の夢に女性が現れ、「愛執のためにただよっていたが、親鸞聖人のお諭しにより往生を遂げさせて頂く」と告げて、光を放ち西の方角へ去っていきました。

そして、お礼を申す与八に対し、三幅の霊宝(掛け軸)を与えられた、と伝えられています。与八は念仏にであった喜びを忘れぬため、これ以降、喜八と名のったと言われています。

喜八阿弥陀堂(茨城県小美玉市)

筑波山の餓鬼済度

越後から常陸国へ小さな幼児を含む家族とともにやってきた親鸞聖人にとって一つの目印になったのであろうと考えられるのが筑波山です。

筑波山にまつわる親鸞聖人の伝承には、筑波の神と和歌のやり取りをした話、登山した時の腰掛け岩など様々な伝説が残っていますが、餓鬼済度の伝承は高田派の書物にも伝わり、多くの方に知られる話です。筑波山へのお参りのために宿泊すると、親鸞聖人の夢に現れたのは筑波山男体権現でした。その権現のお告げに従って洞窟に入ると目の前に現れたのは、過去の貪欲な生き方が原因で餓鬼になってしまった者たちです。

彼らは、菩薩が御本体であった筑波権現を信仰していたため、その慈悲心によって毎日少しずつ水を貰ってこの洞窟の中で過ごしていたといいます。親鸞聖人は、仏の教えを説き示すことによって、餓鬼の姿となった彼らを苦しみから救いだします。そして、餓鬼たちを苦しめていた悪鬼も、親鸞聖人の教えによって最終的には天に昇り救済されたと伝えられています。

 相模国府津・帰命堂
名号石の由来

神奈川県小田原市国府津にある真宗大谷派の真楽寺には、十字名号と八字名号が刻まれた帰命石と呼ばれる大きな石が伝わっています。

本願寺・第八代 蓮如上人の孫にあたる顕誓の書いた真宗史『反古裏』や江戸期編纂の『二十四輩巡拝図会』や『新編相模国風土記稿』には、親鸞聖人が国府津滞在の頃、御勧堂(真楽寺にある御堂)下の唐沢海岸に一切経を積んだ大陸からの船が着岸し、その船底に積まれていた八枚の大きな石の一枚に親鸞聖人が十字と八字の尊号を書かれた、と記されています。

伝承によると、石が自ら震えて音を発する様子をいぶかしんだ村人達が親鸞聖人にそのことを尋ねると、「この石は天竺国より大蔵経とともに運ばれてきた天竺石である」と親鸞聖人は仰られ、指先で十字と八字の名号を書かれると、震え音を出していた石が静まり返ったと伝えられています。

次の図は、仏光寺に所蔵されている伝絵で、覚如上人の『口伝鈔』に示される一切経校合の場面です。一切経とは、お経やその註釈書及び教団の規律をまとめた大部のもので、親鸞聖人は六十二、三歳の頃にこの一切経を書写する事業に参画されたと言われています。一方、親鸞聖人が五十六歳の頃から突然相模国に足跡が見えることからこの時期と考える説もあり、この一切経校合の事業参画と名号石の由来の伝承は同じ頃の場面ではないかとも考えられます。

佛光寺(京都)所蔵 伝絵「一切経校合」

文責/東京教区(築地本願寺)親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要協賛行事 企画準備分科会
 
【参考文献】
・真宗史料集成編集委員会『真宗史料集成 第八巻』同朋舍出版仏教事業部
・(真宗大谷派)東京教区宗祖親鸞聖人750回御遠忌推進委員会、
・(真宗大谷派)東京教区親鸞聖人伝説伝承調査委員会『親鸞聖人史跡伝説伝承 ― 東国に語り継がれる物語 ―』
・堤邦彦『絵伝と縁起の近世僧坊文芸:聖なる俗伝』森話社
・南條了瑛「真宗伝道の実践的研究 ― 日本における真宗伝道の具体的展開 ―」

※本記事は『築地本願寺新報』に掲載された記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。