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危機を避けるため、逃げるのは悪いことではない【多田修の落語寺・花見の仇討】

落語は仏教の説法から始まりました。だから落語には、仏教に縁の深い話がいろいろあります。このコラムでは、そんな落語と仏教の関係を紹介していきます。今回の演題は「花見の仇討」です。

 4人の男が花見の相談をして、周りの人をあっと言わせる芝居を思いつきます。配役は、1人が浪人、2人が仇討をしようとしている兄弟、あとの1人が六部(全国を巡る巡礼者)です。

 まず、浪人役が花見をします。そこへ兄弟役の2人が「仇を見つけた」と言って3人で立ち回りを始めます。周りに本当の仇討だと思わせておいたところで、六部役が仲裁に入って酒肴を振る舞い、4人で踊って茶番だと明かす段取りです。

 ところが当日、六部役が叔父に会って、酒を飲んで酔い潰れてしまいます。あとの3人は、仲裁が入らないまま立ち回りを続けます。それを芝居と知らない本物の武士が「助太刀に入る」と刀を持ってやってきて、怖くなって3人とも逃げます。武士が「逃げるに及ばない。勝負は五分だ」と言うと「勝負は五分でも、六部がいません」。

 六部は正式には六十六部と言います。江戸時代まで日本を66の国に分けていたことからついた名前です。天下太平を祈る巡礼ということになっているので、六部は関所で丁重に扱われました。もっとも、幕末の記録には「近頃の六部は、江戸にとどまっている偽物が多い」という意味のことが書かれています。

 この落語の3人は、事態が手に負えなくなったら逃げました。危機を避けるために逃げるのは、悪いことではありません。本願寺第8代・蓮如上人は、戦乱の世で難を避けるため、拠点から退去したことがあります。
 

『花見の仇討』を楽しみたい人へ、おすすめの一枚
十代目金原亭馬生(きんげんていばしょう)師匠のCD「NHK落語名人選68十代目金原亭馬生 たがや/花見の仇討」(ポリドール)をご紹介します(今の馬生師匠は十一代目です)。東京では通常、落語家は前座→二ツ目→真打と昇進します。しかし馬生師匠は前座を経ないで二ツ目からスタートしました。

多田 修(ただ・おさむ)
1972年、東京生まれ。慶應義塾大学法学部卒業、龍谷大学大学院博士課程仏教学専攻単位取得。現在、浄土真宗本願寺派真光寺住職、東京仏教学院講師。大学時代に落語研究会に所属。

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。