未来が見えなくても、大丈夫【眠れない夜に効く、仏さまの話】
わからぬ方向に進むのが、私たちの本当の姿
年が改まって、早三ヶ月が経ちました。新年を迎えるにあたり、誰もが良い年でありますようにと願って新年を迎えたことでしょう。しかし、元日に能登半島地震が起こり、そして翌日には、羽田空港で航空機衝突事故が起こり、何が起こるかわからないことを実感しました。
昨年暮れ頃から考えていることがありました。ある方からこんな話を聞きました。「前後」「サキ・アト」という言葉の意味についてです。
前(サキ)はどっちと言われれば目の前を指します。後ろ(アト)は背中側。しかし、前日(先日)と言った時には、過去のことを指します。もう過ぎ去ったことで誰もが昨日あったことはわかっていること。後日は未来のことです。後日(アト)のことはわからないのです。「サキ」「アト」という言葉をまったく正反対の意味で使っているのです。
なぜそのような言語表現になったのかが分からず考えていました。日本中世史学者の勝俣鎭夫さんが、このことを調べていました。
中世の社会においては、「人々は未来( アト・跡・後)に背を向ける姿勢をとり、過去(サキ・前・先)と向き合い、過去から現在にいたる道を見据え、未来に向かって、あとずさりしているという歴史認識をもっていた」と結論づけています。つまり、前に進んで歩んでいる姿は、見えている方向に歩んでいるのではなく、実は後ろ向きに、見えない、わからない方向に歩んでいるという感覚をもっていたというのです。
「われわれは、過去に向き合い、未来へは背中から入って行く」ということになるのだそうです。それが、戦国時代という大きな社会転換の中で視覚的認識のあり方から、未来を切り開き、より良い未来を志向して進むという社会に変わったことで、目の前を「サキ」=未来、背後を「アト」=過去と正反対の転換した表現が使われるようになったとのことでした(※1)。
※1 『中世社会の基層をさぐる』勝俣鎭夫(山川出版社)
未来のことは、誰にもわからない
未来のことは誰にもわかりません。何が起こるかわからない未来に向かって実は背中から進んでいたのです。
親鸞聖人が私たちに教え勧めてくださった阿弥陀さまという仏さまは、起こって欲しくないことを起こらないようにしてくださる仏さまではありません。起こって欲しくないことが起こらないようにというのは誰もが願うことですが、現実には起こるのです。では、浄土真宗という仏教は、どのような仏教なのか。何があっても大丈夫という、したたかで、たくましく、力強く生き抜いていく道を示し続けてきたのです。
私たちは、予期せぬことが起これば、悲しく辛く思い悩みます。でも大丈夫だからと、いつも一緒に悲しみ泣き、共に歩んでくださる大いなる存在に気づかされながら生きていくことに恵まれてきたのです。
お釈迦さまが亡くなる時、お弟子の阿難尊者が尋ねます。お釈迦さま亡き後どのように生きていけば良いのですかと。すると「自らを灯火に、法を灯火にどうにかこうにか生きていきなさい」とおっしゃったと伝えられています。
今までは、お釈迦さまに尋ねれば、その道を示してくださいました。お釈迦さま亡き後、何をよりどころに生きていけば良いのか不安に思う阿難尊者にそのように答えたのです。わが身のことは自らが担い、仏さまの知恵と慈悲をよりどころにどうにかこうにか生き抜いていきなさいと、何があっても大丈夫という歩み方を教えてくださったのです。
私たちは、「バック トゥ ザ フューチャー」ということなので、未来のことは誰にもわかりません。だから未来を不安に思っても仕方がないのです。見えている過去と現在を見据えながら、見えない未来をどうにかこうにか歩んでいきましょう。
宮本 義宣(みやもと・ぎせん)
1962年川崎市生まれ。大学卒業後、企業で広告デザインの仕事に就く。その後、結婚を機に自坊のお寺に戻り、2005年住職を継職。武蔵野大学通信学部講師、東京仏教学院講師などを務める。