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死ぬのが怖い。この恐怖とどう向き合う?【仏教で答える悩み相談38】

 人の数だけ、悩みは尽きぬもの。皆さまから寄せられた悩みに、お坊さんや仏教関係者たちが答えます。

今月のお悩み

Q 死ぬのが怖いです。「痛いのでは」「いつ訪れるのか」と考えていると夜も眠れません。お坊さんは日々どうやって死の恐怖と向き合っているのでしょうか? (20代・男性)

A1
知ってるだけ余裕があるかな


そうですか。死ぬのが怖いという気持ちをお持ちなのですね。

話を伺って、自分はどうなのか一週間くらい考えてみました。いくつかの臨終の様を思い浮かべると、やはり私も死が怖いです。ですがそれ以上に感じたのは、子どもが大人になるまで生きていたいという願望でした。なので、あなたとは違う感じ方であるのを自覚したところです。

この違いは何かと考えました。すると「生老病死」とか「死もまた我らなり」のような話を、子どもの頃から随分聞かされてきたと振り返りました。そして現在はお葬式や法事で、死の現場とその後に立ち会う務めをしているわけです。いま思うのは、私が聞いてきた話は本当にそうであったし、その先まで毎日のように確認する暮らしをしています。上から物を言うようで恐縮ですが、知っている分だけ余裕がある。これが私の向き合い方だとお答えします。
(茨城県常教寺住職・藤本真教)

A2
「死」への恐怖は消えずとも恐怖の種類は変わってくる


乗り物に乗ってカタカタとゆっくり高いところまで連れていかれて、ふとした瞬間に真っ逆さまに落ちていくジェットコースターは遊園地に行くと人気アトラクションです。しかし、何もないところで何十メートルも真っ逆さまに落ちようなんて人はまずいません。この二つの恐怖は全く別物だからです。

お坊さんも含めて、多くの人々が「死」を恐れているのではないかと思います。しかし、阿弥陀さまという仏さまは、私が決して一人で命終えていかないように、私と常にご一緒くださいます。そして、この世のご縁尽きたときには、お浄土という世界に仏さまとして生まれさせてくださるのです。この阿弥陀さまと共に人生を歩んでいると気づいたとき、「死」に対する恐怖は消えずとも、恐怖の種類が少し変わってくるのではないでしょうか。(伝道企画部コンタクトセンター 担当・橘 俊了)

A3
恐怖の正体は「とらわれ」


 死の恐怖は時代や地域を超えた普遍的かつ根源的問題ですね。自分では解決できないため、私たちは死について考えないように生きてしまいがちです。「死ぬのが怖い」と感じるのは繊細で鋭い感性をお持ちなのでしょう。しかし「痛みがなければ」「いつ訪れるのかわかれば」、死への恐怖はなくなりますか。

平安時代の源信という高僧は死に対する恐怖の正体は「境界(自分の家族や財産)愛」、「自体(自分の心や身体)愛」、「当生(死後の問題)愛」の「三愛」であるとおっしゃっています。ここでの愛とは「とらわれ」「執着」の意味です。

死の恐怖と向き合うとは、その感情を生み出す自分のとらわれの心と向き合うことです。ではこのとらわれの心をどうすればいいのか……仏さまの言葉にたずねていきましょう。(武蔵野大学講師・横内教順)

 
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※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。