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読書の楽しみについて・2:カント「判断力批判」

カントの三批判書:「純粋理性批判」「実践理性批判」そして「判断力批判」を順番に、この2年と半年間あまりをかけて読んできた。今年に入ってから最後の「判断力批判」の下を読みはじめ、今、 p.112まで来た。ついに本編すなわち第二部の第一編と第二編を読み終え、第二部の付録に入ったところだ。だいたい予定どおりで、全体の付録・判断力批判『第一序論』も含めて 5月の連休あたりに読み終えることができるだろう。

この判断力批判は読んで実によかったと、読み進むほどに実感している。「自然の必然」と「人間の自由」の間にある「自然が創る美しさと人間の創る美しさ」および、美しさを認識する力としての「判断力」について論じている。

間にあるものを論じることによって両端にあるもの、すなわち、「世界がどのようにあるか」を認識する力としての「悟性」と「世界がどのようにあるべきか」を認識する力としての「理性」とが、くっきりと浮かびあがってくるようだ。つまり主題になっている判断力だけではなく、純粋理性批判と実践理性のまとめ、しかも著者によるわかりやすいまとめのように読むことができる。

ページを繰るうちに、規定的判断や反省的判断といった言葉について、前者が演繹法 (deduction) と帰納法 (induction)に近い概念であり後者が推論 (abduction) に近い概念を指しているらしい、そんなことにふと気が付いたりする瞬間は実に楽しいものである。

人間が世界を認識する際には、3次元空間、時間軸、因果関係、合目的性といった枠がある。そして世界がどうあるべきかを考えるときには、そして認識の形式に沿った想像力が必要となる(*1)。そのような形式に従ってしか物事を見ることができない、その形式と枠を外した存在は理解できないばかりか認識さえできない、それだから逆に、理性の暴走を止めてその限界をしっかりと理解したうえで、次のように考えておけばよい。神の存在に関して証明することはできないが、信じることはできる。

ここで注意しなければならないのは、キリスト教を信じるべきだ、とかどの教義が正しいなどという議論は一切していないし、また特定の宗教を否定することもなく、主張の片りんさえ見せないということだ。

つまり、この世界に自然の必然と人間の意志の自由という一見すると矛盾する力が働いているように見えるが、どちらが正しい認識だとか誤った認識だというわけではない。それは人間があらかじめ持つ認識の形式であり、それを超越したものは理解しえない。だから、人間の認識の性質を受け入れて考えておけばよい、と言っているわけで、一神教の神であっても八百万の神であっても、どのように考えても差し支えない。そのような射程が長く広い考え方だ。

そして、自然科学と宗教とも、どちらも人間にとっては大事なものであり、だからこそ、それぞれの適用範囲には注意して使用する必要がある、ということが自然に理解できる。科学技術万能主義にも陥らず、オカルトにも傾倒せず、常によく考えて物事にあたっていく。そんな態度が大事だということだ。


ところで、イスラムやアラブの人々は、どうやら違った世界の見方をしているらしい。インシャアラー。つまり、自然のの必然も人間の意志もひっくるめて全ては神の御心のまま、ということだ。

つまり、今、ここで、起こっていること経験していることは神が創ったこの場所の現時点であり、過去があるから今がある、とか、今の行動によって未来が変わるとか、そのような関係性はない、とする。

アラブのアトミズム - 非連続的存在観というのを去年の夏に知ったのだった。昨日、井筒俊彦著「イスラーム文化」の関連する部分をパラパラと再読してみた。

因果関係という枠は空間と時間の連続性の認識と関係している。しかし、どうやら、今ここ、を未来と過去と断絶して考えるいわば不連続な認識をしている人もいて、アラブの人はどうやらそのような認識をしているらしい、ということなのだ。極端に言ってしまうと、常に今ここしか考えず、過去の反省も後先も考えない、そんな認識と思考の枠組みなのだ。

これは目から鱗であった。

もっとも、異論のある人もいるかもしれない。私が知りあった中東の人といえば、ヨルダン出身でドイツにいるヨセフさんと、学生のころのバイト先で知り合ったイラン人の2名ほどだ。中東には足を踏みいれたことはない。だから、自分の経験として語ることはできないし、私の考えたこと気づいたと思ったことが正しいと言い張るつもりはない。

しかし、そのように考えることができ、そのように考える人々が世界の中にいる、ということは理解でき、その点、私にとっては「目から鱗」だったと言える。イスラームの多様な世界のことはもっとこれから学んでいこうと思う。

だからこそ、判断力批判も面白い。


読書の面白さは、こういうところにある。


■注記

(*1)あっさりとこう書くとかえってわかりにくいかもしれない。しかし、ビジネスの企画起案やプロジェクトのミッション・ステートメントと同じことである。企画起案書など、だいたい次のような枠組みであるはずだ。

どこそこで、いつごろ、このような未来を実現するべきであって、それはこれこれこういう理由で必然であり、このような究極の目的と共通の価値観があるからなのです。その実現のために、この製品を開発し新しい事業を作るのです。絶対に売れます。だから、予算と人を割り当ててちょうだい。

一般的な話であることは言うまでもない。

どこそこで=3次元空間、いつごろ=時間軸、なぜ・理由=因果関係、何のために・究極の目的・共通の価値観=合目的性。

このように考えると、組織のリーダーやカリスマ、起業家、あるいはビジネスやハウツーのグル(導師)が、スピリチュアルな要素を多かれ少なかれ持つのは必然といえよう。人間にとって、自然の摂理にしたがった演繹的・帰納的論理だけでなく、自由の概念によるあるべき姿の提示も必要で重要なのだ。そして、あるべき姿というのは、論理と演繹だけでは提示できない。それは今の世界の枠内では考えられない、いわば超越した姿であるからだ。

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