柄谷行人「力と交換様式」
今月初めに、柄谷行人「力と交換様式」と加藤文元「宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃」という内容も語り口も対照的な2冊をそれぞれ半分くらいまで読み残りの半分が楽しみ、と書いた。
両方とも先々週に読み終え、期待にたがわず面白く読むことができた。今回は柄谷行人「力と交換様式」について、思ったところを書いておこうと思う。なお、交換様式 A, B, C, D それぞれの内容については、上記記事に私なりの理解を書いているのでそちらを参照していただきたい。ここでは繰り返しを避ける。
さて、上記記事中で「力と交換様式」について、私が感じた違和感として次のように書いた。
確かに、後半を読むにつれて、この「違和感」は「わかった感」にかわった。この違和感はまさに柄谷行人のA, B, C で説明ができるのだ。C がドミナントな資本主義社会のなかで生きる私と、Bがドミナントな立ち位置で会社の組織人という立場の私でありながら、自分の仕事の裁量度が高くフリーランスのような仕事の仕方、換言すればAがドミナントな仕事の仕方をしているつもりでいる、そんな私が感じる特有の違和感、ということになるわけだ。
ところで、次のような状況を考えてみよう。
生産から、属人的な(その人にしかできない)職人芸(*1)をなくしたい。職人芸を技術に昇華することで、誰にでも実行できるプロセスにし、一級品でなくてもいいから一定の品質で生産できるようにし、生産と品質を組織的に管理できるようにしたい。そしてその先、標準化の強化をしていくことで、そのプロセスを世界中のどの国でも実現できるようにし、より低コストな国でスケーラブルな生産を可能とし、国境を超えた大きな商売(グローバル化)を可能としていきたい。
というのは、交換様式で説明するならば、次のように説明できる。すなわち、交換様式Aの力を無力化に近いほど弱めて交換様式Bに転化し、Bを発展強化することで、それによって組織の持つ交換様式Cの持つ力とリーチを拡大しようという話である。この過程において、実労働者は組織との間で交換様式の主体がAからBとならざるを得ず、表には現れないが背景にあるCの力が強大になっていくことを実感し、それを自らを疎外する動きとして感じるであろう。
働き方や、成果や報酬に対する考え方、または仕事の優先順位など、個人と組織がぶつかり摩擦が生じる際に、それぞれの求める交換様式を A, B, C, に分解して考えると、問題を非常に理解しやすい。
実際、本書の後半を読み進むにつれ、現代社会に至る過程の説明を、ホッブス、ヘーゲル、フーコー、カントを参照し引用しながら続く論を読んでいくと納得感が強くなっていく。
特に、産業革命以降に第四次産業革命と言われる現代まで、交換様式で考えると C がドミナントな時代が続いているだけであり、新たな社会に変わるような革命なのではない、そのように考えるとマルクスの思想は現代までの射程を持つものであって限界があったわけではない、というあたりはなるほど、そういう見方もあるのだなと思わせられ、新しい見方を身に着けたような気がしてくる。
が、それだけでは「ずっと今現在も資本主義社会が続いている」と言っているのと変わらない。それぞれを産業革命と言わしめるところが何かを考えたほうがいいのだろう。その点は、特に書いてなかったとは思うが、それぞれの産業革命によって C の力の及ぶ範囲と力の大きさが革命的に大きく変わり、だから交換様式Cがドミナントな社会に生きる私達の生活のありようや社会のありようが大きく変わったのだ、と考えれば、それぞれを「革命」と言わしめる所以も同時に理解できる。
IT革命によって、地域や国境を超えた組織の持つ B の力が強化され、 地域や国境を超えた C の力が強化されていき、経済のグローバル化と富の集中に現れていく。そのように C の力について具体的なイメージを持つことができた。そしてその中で 交換様式Aを求める人や、国や民族あるいは宗教、コミュニティとしての交換様式Bとの対立として、今現在世界で見られる様々な事象を説明することができる。
また、現代の働き方改革と言われるものが、生産性の向上を目標としている時点で、Dが来るようなふりをしながら、実はBの力の変容と強化によってCの力を強化しようという動きにすぎない、と理解できる。
「ティール組織」も A, B, C, によって鮮やかに説明できるであろう。組織論であれなんであれ、人間の古代社会からの支配ー被支配関係の変遷およびその中での交換様式の変遷と紐づけて語られる、そのような議論については、A, B, C によって説明することができるはずだ。
このように、上っ面を読んだだけの浅い理解であっても、なんでも説明できる気になってしまうのだ。もうちょっと深く掘ることができる人ならば万能の鋏にできるかもしれない。
これはあまりよくないことだ。これから何年間か、柄谷行人を拠り所に、交換様式 A, B, C, D を振り回すコンサルタントがうようよ出てきそうな気がする。
A, B, C で現代社会を鋭く分析できる、というわけだが、では、著者のいうDという交換様式は実際どんなものだろうか。交換様式D とは著者によれば、来るべき社会が基盤とする交換様式であって、具体的にははっきりしない。
著者によれば、古代社会の一部で見られる対等の関係での贈与と返礼の関係がヒントであり、そのような交換関係が人間社会でありえることをマルクスが見出だし、つまりは、Aが高い次元で回復された交換様式である、とする。
Dは交換様式 A, B, C とは異なる交換様式となるはずだが、具体的にはなんだろう。考えてみたがよくわからない。
それは、定義によって、Cを超えた力でなければならない。Cの限界は、貨幣そのものは国家が発行し国家が裏付けするものである、そのような貨幣の限界にあると思われる。組織が持つBの力が国境を超えることで、そして国家間の秩序が保たれている前提があってこし C の力は国境を超えることができるが、Cは、やはり国家の限界を原理的に持っていると思ったほうがよいだろう。貨幣の信用の裏付けは中央集権的でありそれは B の力がなければならないのだ。
ということは、貨幣に代わって貨幣を超えた力を持つ交換様式があるとするならば、その交換様式は国家による保証によらないものでなければならない。中央集権的ではなく、一回一回の交換そのものが信用を裏付けなければならない。
とするならば、ブロックチェーンによる交換様式は近いのではないだろうか。
たとえば、NFT (非代替性トークン)、DAO (非中央集権型自律組織)、といったキーワードが思いつく。
ちょうど、伊藤穣一の YouTube での解説を視聴した。
山古志村デジタル村民の話を聞いていると、国境を超えて(Bの力)金銭的な利害(Cの力)を超えたフラットな価値の交換が可能になっているとも言えるのかもしれない。推進派側に問えば、みなそう言うかもしれない。
しかし、ブロックチェーンによる国家を超えた通貨になるはずだったデジタル通貨が投機対象になっているのを見て、また、やはり一瞬で投機対象になってしまったNFTアートを見れば、貨幣と交換ができるすなわち値段がついたその時点で C の強大な力に屈してしまうことがわかる。Dにはなりえない。
上に見るDAOというコンセプトにしても、コンセプトに値札がついた時点で同じなのだ。いや、Dの交換様式が A, B, C の世界に割り込んできた、とも言えるのだろうか。最後に伊藤穣一がコメントしているように、単なる金儲けの世界との境界は危うい。少し離れた目で見て見ると、結局Cの力を持つための新たなツールとなっているように見えてくる。
論理的には、今、この世界でDの萌芽を探すのは難しいだろう。私の目にとまる時点で、すでに値札がついているからだ。
そういう意味では、もし、国家や資本主義を揚棄した社会来るならば、換言すれば、B, C, を超えた力を持つ新たな交換様式が来るとするならば、A, B, C の世界の中で生きる人間が意図するものではなく、人間が知らないうちに、交換様式の変遷をつかさどる上の次元の何かの力によって変遷し、人間の社会が全体いっせいに変わっているそういう仕方しかないのだろう。そのことは繰り返し著者によって述べられている。そのようなつかさどる何かの力を、霊と呼ぶか物神と呼ぶか、それは人間の感じる力つまりは A, B, C による力の、さらに上の次元のものなのであまりこだわることはないということは言えると思う。
しかし読後に、そのようなことをつらつらと改めて考えていると、私にとって非常に納得しがたいところがあることに気付いた。
まず、1点目。本書の全体は、国家と資本主義を揚棄する社会が次に来る、ということを前提にして論が展開されている。そのうえで、そのような社会があるとするならば、それがどんな形でなければないのか、そのときの交換様式がどうあるだろうか、という考察になっている。では、そのような世界が次に来るべき社会だと本当に言えるのだろうか。
それを資本論を代表とする、マルクスとエンゲルスの文書やそれ以前の賢人たちの文書の解釈に求めているが、それは正しいアプローチなのだろうか。
来るべき社会を前提に、その社会での交換様式 D を考えるというのならそれはその前提を信じている人にしか通用しない議論だ。
たとえば、形式的に考えるならば、AとBが結託しながら C が相対的に非常に弱くなった社会を経て、Cが高い次元で回復する新しい資本主義、というような社会の変遷を考えることもできるのではないだろうか。そのような複数の形式的なシナリオを考えてDを考察して比較検討したうえで、「Aが高次の次元で回復するDが出現することで、国家も資本主義も揚棄した社会が来る」、と言うことができたのだろうか。
さらにいえば、科学的な考え方というならば、A, B, C の交換様式の変遷の歴史から、法則と必然性を導き出し(別にそれを霊だといってもかまわないし、方程式でもなんでもいい)、そこからDがどんな様式になるかを導き、だからこそ来るべき社会と経済がこうなるだろう、というふうに考えるのが科学的な考え方なのではないだろうか。そのような考え方を読み取ることはできなかった。
2点目は、交換様式から発生する力という視点はいいとして、交換そのものは力関係から発生するのではないか、という素朴な疑問だ。
完全に対等な二者の間では交換は発生しようがないからである。社会の中での価値の所有のありかたや生産のありかたや支配・被支配関係からの観点として対等といえる交換というのがありえるというのはわかったにしても、特定の個人と個人の間(個人と、自然や社会もふくむ環境との間でもいい)の交換の場面では、必ず力関係のアンバランスがあることによって交換の必要性が生じる。そうでないことがあるのだろうか。
私が考えるには、「交換の持つ力」とは、そのアンバランスの程度そのものでもあり、そして交換の実施によってアンバランスの程度つまり「交換のもつ力」そのもの自身を変化させる、そういう力なのではないだろうか。それが、権力の集中や資本の集中を説明できる力なのではないだろうか。
3点目は、では人はなぜ交換するのだろうかという点だ。交換に宿る価値とはなんだろうか。その「なぜ」が交換の様式の変遷をつかさどる力の源なのではないだろうか。力関係のあるところに交換が発生するとして、その場面で交換が実施される理由は、力関係を解消しようとする意志か力関係を拡大しようとする意志だろう。一言で言うならば人間の持つ欲だと私は考える。
考えてみれば交換関係BとCは、交換する実体を抽象化・概念化することで、人間の欲の範囲を、量、種類、時空間、それぞれにおいて拡大し解放していき、それぞれの持つ力が強化されてきたと言えるのではないだろうか。では、A, B, C を揚棄してAを高い次元で回復するということは、人間が自身の欲望を捨て去り高い次元の生命体にならなければありえないのではないだろうか。と、いうことは、それはこの世もかの世も捨て去り解脱した人たちだけで構成された社会なのではないだろうか。それとも、交換様式Dが相変わらず欲望によって突き動かされて生まれる新しい交換様式であるとするならば、それがAが高い次元で回復された交換様式であるとどうして言えるのだろうか。
以上の疑問については私は答えを持っていないし、誤った読み方による見当違いの疑問、しかもよく考えられていない雑な疑問なのだろうとは思う。理論を今の社会に役立てようとする人たち、あるいは理論を売ろうとする人たち、つまりはCの交換様式の強化を考える人たちには無用な疑問かもしれない。
おそらく柄谷行人は以上の程度の低次元な私の疑問に対してはとっくの昔に答えを出していて、そのうえで書かれて出版された本なのだろうと思う。そう思うと、古典的な経済や社会の理論を網羅的に理解したうえで柄谷行人のこれまでの著作を読み込み思想の変遷を理解すればきっと鮮やかに答えられるものと期待をする。と、なると、誠に残念ながら私の理解の及ぶ範囲を超えているというということになりそうだ。
いろいろなことを分析し説明できる強力なツールを手に入れた気分になりながら、いくら切れ味鋭くても表面的な理解で振り回すと怪我するよ、という気分、そして新しい知識を学んだという満足感と高揚感がありながらも、それはすでに分かっていることを新しい言葉で言い替えているだけじゃないのという気分、そして、その知識が実際には手に入れようとしても手に入れることのできない内容であることを思い知らされている、という感覚をすべて味合う、一言でいえば、すばらしく学んだ気になったが同時に全く学んでないことがわかる、という珍しい読書体験だった。
新しい知識の獲得というのは言うは易く行うは難しい。とはいえ、「交換」と「交換によって発生する力」そして「対称性の崩れ」、というテーマは面白い。来年の今頃に読み返してみるとまた違った理解ができるかもしれない。それはそれで楽しみだ。
■注記
(*1) ここでいう「職人芸」は、○○職人と呼ばれる各種伝統工芸における職人だけでなく、科学技術の世界であっても広く一般に高度な専門知識や経験を要する者の仕事も含む。
新明解国語辞典を引くと、職人とは「特殊技能を持って衣食住の実生活面の必要に応える労働者」なので、その意味には沿っていると思う。