生命のはずみ・2:ベルクソン「創造的進化」第一章 生命の進化について
ベルクソンの「創造的進化」を読み始めたのが7月の初旬、一日5ページくらいの割で、章の終わりごとに note に思ったところを投稿しながら、余裕をたっぷりとって10月末に読了予定にしている。
今のところ予定通りに読み進めることができていて第一章は先週に読み終えた(*2) 。速読多読を誇る向きもあるが、読書の楽しみ方はいろいろある。そもそも自分の知らない概念や知恵を自分の中に取り込むのは時間がかかる。毎日、自分の消化できる量ごとに少しづつ味わっていくのも悪くはない。
休んでもやめない、というのが大事なのだと言いつつ、それでものれない本はギブアップすればよいし、十分に理解できずチンプンカンプンのところが多くても面白ければ読み続けるといいと思っている。そのうちわかると思って気楽に構えていると、記憶の奥底でいつかどこかで何かと呼応して、理解が深まったり新しいアイディアが生まれたり、そんなことがあるだろう(*3)。
それはさておき、「創造的進化」の第1章は、生物の進化について機械論と目的論の視点から考察し、進化論をめぐる1900年ごろ当時の諸説を4種類にわけてとりあげ吟味し、ベルクソンの思想の中心「生命のはずみ」を導入する。
本書が読みやすいのは、ベルクソンが当時の進化論の議論を幅広く押さえていてそれらに言及しながら論を進めるからだろう。モノローグのように自分の考えを展開し論述するのではなく、「他の人はこう論じている」「ああいう意見もある」、「この点はもっともだが、こちらの点は不満足である」と論じ、そして「だから私はこう思う」という筋立ては、やはり読みやすい。
まだ、ダーウインの進化論がようやく広く受け入れられはじめた時代だ。メンデルの遺伝の法則が再発見された1900年の直後のことでもあるし、遺伝子の存在やその構造が明らかになるよりも前である。展開されている議論について現代の知見に照らし合わせて妥当性を細かく吟味しても仕方のないところもある。
とはいえ、ベルクソンの視点と議論の中心は、現代でも多くの人が勘違いしていると思われる点であり、読まれるべきものだと思う。
たとえばベルクソンは軟体動物タコやイカの眼の構造と人間などの眼の構造がよく似ていること(*1)を引き合いに出したり、単細胞生物や植物に関しても考察し、単純な機械論によっても目的論によっても進化が説明できないと説く。
ベルクソンの視点で大事な点のひとつは、「進化」という日本語によっても躓きやすい点であるが、「進化=進歩」ではないという視点だ。また、人間・知性が生命体の中で特別な地位にいるわけではなく生命のとりうる形の一つにすぎない、という視点でもある。
地球上の生命体全体を俯瞰したときに、進化とは進歩ではなく、複雑さの程度の増加と多様性の増加と捉えることができる、という点は大事だと思う。
また、生命体の生まれ方が要素の積み上げではない、という点も当たり前のようでなかなか忘れがちな点である。たとえば、完成された目の構造を解剖することで角膜・水晶体・硝子体・網膜・視神経といった構造物やそれらを構成するそれぞれの細胞など理解することができる。だが、これらの要素は人間が機械を作るのと同様な形成のされ方はしていない。つまり、部品を一つ一つ図面に従って作り組立図通りに組み上げていくような「製作」ではなく、単純な細胞から分裂していくことによって各要素が発現し自ら「組織化」されていくのだ。
だからこそ、生命と生命にかかわる現象は従来の科学ではとらえきれず、そこを哲学がカバーする領域だろう、ということも述べられており、哲学の領域についてはともかく、科学を相対的に見る視点として大事だと思うところもある。
知性は、現状と未来も過去と同質で過去の繰り返しであること、「同は同を生む」原理によって未来を予見しようとすることが要点である、と指摘したうえで「科学はこの操作をぎりぎりの程度まで精密にし的確にする」ものだと指摘する。つまりは、未来も含めいつであっても、無限の宇宙のどこであってもも適用できる法則を見出そうとする働きだが、その本質は日常の知識と同じで事物の繰り返しの面しかとらえることができない、と喝破する。 (ベルクソン「創造的進化」p.52)
このあたりは当たり前のようでいて、科学万能主義に感化されやすい人は常に注意するべき点である。そして次のように続ける。
この点に関してはどうだろう、私にはちょっとモヤモヤする部分ではある。科学でも宗教でも手に負えない領域を哲学がしっかりと抑える、というのはわからないでもない。しかしこのような視点で哲学の立ち位置を見ると、哲学の役目を狭めていき現代にいたってはむしろ役目がなくなってしまうようにも思える。答えを簡単に与えることができるという点では、その答えが正しいかどうかは別にして、似非科学や似非宗教のほうが役目を果たしているのかもしれない。
むしろ哲学については、「役目」など考えず、古くからの哲学が取り組んできた問いとは何か、という視点から見直したほうがよいのではないだろうか、そんなことをぼんやり考えていた。
さて、ベルクソンが第一章で問題にし論を展開する中心にしている主題は、次のような点であると理解した。
進化が偶然の積み重ねによって起こるとするならば、なぜ、地球上には無限ともいってもよい多様な生命体にあふれ、しかも別々の進化を辿った生命体から、高度に組織化された複雑な組織を持つものが生まれ、しばしば同等の機能がよく似た構造で実現されている、なぜなのか。そんなことが偶然によって起こりえるのか。
この疑問は、次の二つの疑問に分解できると考えられる。
偶然によってもたらされる微小な変化が自然に淘汰されることによって、既存の機能が環境により適応する高度な性能になることは納得できる、しかし、新しい機能や新しい構造の発現のような創造的な飛躍は起こり得ないのではないか。
偶然による変化はエントロピーを増大させる方向でしかなく全体が乱雑で機能しない均質なものに変化する方向であるはずなのに、なぜこのように高度に複雑な構造が形成され、むしろ発展していく方向となるのか。
ベルクソンは、これらを単純な機械論(物理化学法則だけで自然の成り行きとして説明できる)や単純な目的論(生命には目的があるとし目的の実現として説明できる)では説明できないとし、生命の本質として「生命のはずみ」という概念を導入する。
遺伝子の構造や、確率論、あるいは開放系での自己組織化や情報理論について深く理解がされていない当時ではあるので、それをもって批判しても仕方がないところだ。もっとも、現代人でも、ランダムな過程から条件次第で秩序が形成され維持・発展されうるということを明快に説明できる人は少ないかもしれない。
確率論や偶然事象について、「偶然の果たす積極的な役割」については、竹内啓「偶然とは何か」という本でコンパクトにわかりやすくまとめられている。この本の第2章「偶然の意味」と第4章「偶然の積極的意味」を読むとよいだろう。
さて、時間は均質ではない、すなわち、未来は過去の繰り返しではなく現在の創造の連続であり、そこにこそ過去から未来に続く時間の持続がある、とするベルクソンの時間に対する見方は興味深い。
私たち生きる者にとって時間は均質ではないのだ。
「生命のはずみ」がどこまでの射程を持った概念なのか、これから読み進めていく中でわかってくることだろう。楽しみだ。
私たちはどこから来てどこへ行くのだろうか。
■ 注記
(*1) 以前にタコの知性に関する本を読んでとても面白かった。興味ある方は是非、読んでみてほしい。
知性と呼べる能力にしても、様々な形がありそうだ。
(*2) 今回は第1章を読み終えたところで思ったところを書いてみた。調子よく読み進めることができれば、だいたい3週間おき、次は第2章を読み終えて9月4日、続いて第3章までが9月25日、第4章までで読了10月16日、最後にまとめて10月30日ということになるだろう。これから、本記事や続く記事も、読み進んだところで気の付いたところ、私の理解の誤りの部分など、徐々に修正していくことになるだろう。
(*3) ない場合もある。