【書評】『西洋美術史入門』/美術史的鑑賞【基礎教養部】
毎月の最終日が書評記事の締切である。そしてこれを書いている今はその締切日、2月29日の夕方である。先月と先々月は、チームのメンバーに紹介してもらった本を読んだ。今月は私の選書ターンである。選んだのは『西洋美術史入門』。美術史とは何か、そして実際の西洋美術の変遷が平易に解説されている。なんとなく絵画鑑賞には興味がある、だけど何から始めればいいのか分からない、という私にとってピッタリの一冊であった。
本書の内容を一言でまとめるなら、「絵画とは、メディアである(あった)」ということである。識字率が低かった時代に、大衆に何かを伝えるために利用されたのが絵画であった。絵画には「意味」が込められている。だからまずは、それが読み取るための「辞書づくり」が必要だ。そして更に重要なのは、その絵がなぜその時代に描かれたのか、なぜその様式がその時代・地域で流行したのかを思考することである。この営みこそが美術史の中心課題である。
視覚的なイメージが「意味」を持つ例には、骸骨が死を表したり、赤信号が止まれを意味したりすることが挙げられる。視覚的なイメージに限らず、寓話のように、ひとつの物語が何らかの教訓を示していることもある。
解釈されることによって意味を伝える媒体のことを広く記号と言うならば、私たちの周りは、絵画に限らず記号で溢れている。というよりも、記号しか存在しない?こうした記号的なやり取りはなぜ可能なのか。こうした話は認知科学の領域に含まれるのだろう。非常に興味がある。
ここで突然、メタい話をしよう。実はこの書評、最低でも1600字は書かないといけないことになっている。今はnoteのエディターでベタ書きしている。画面の右上に文字数カウンタがある。今ちょうど736文字を越したところである。残り1000文字弱、何を書こうか。
事前にチームでのミーティングがあって、各々note記事で何を書こうか、かる~く話し合ってはいた。そのとき私は、①人間の記号的営み一般について書くor②美術館に実際に足を運んだ感想を書く、のどちらかにしようと思っていた。そう、実はこの間、実際に美術館に行って絵を観てきました。①の方は最近特に興味があることなのでこっちを書きたかったのだが、書けることがほとんど無い。もう少し時間をかけて考えて、そのあと、形にしよう。というわけでここからは、美術館に行ってきた感想を書く!
本書を読み終わったら、美術館に行きたくなった。本で紹介されている絵はどれもサイズが小さくて細部がどうなっているのかがわからない(新書なのだから)。白黒のものも多くある。せっかくだし、大規模で、展示作品がたくさんあるところに行ってみたい。そう思って調べてみると、徳島県にある大塚国際美術館がヒットした。5階建てで、鑑賞ルートが約4キロもあるらしい(キロが置かれた文脈によって瞬時に長さ、速さ、重さのどれであるか判断できるの、すごいな)。夜、寝る直前にここにしようと思い立って、翌日のお昼にはもう着いていた。
この美術館には三種類の展示がある。環境展示、系統展示、テーマ展示の三つである。系統展示は古代や中世、ルネサンスなどの時代ごと、テーマ展示は「時」「生と死」などのテーマごとの展示である。これだけでも十分に見応えがあり、開館時間内に見終わらないほど作品数が多い。それに加えての環境展示。古代遺跡や教会などの壁画が空間ごと再現されており、実際に中に立ち入ることができる。特に、入館して正面に現れるシスティーナ礼拝堂は圧倒的であった。他にも、本書で紹介されていた絵やそうでない絵との数多くの出会いがあった。教室の黒板よりも大きな絵が何枚もあって、それ自体の迫力は凄まじいのだが、通常サイズ?であっても、観る者の目を離させてくれない、雰囲気のあるというか、そういう力のある絵たちは確かにあった。
そこに描かれているものが何を意味しているのかが分からなくても臨場感や雰囲気を味わうことはできるし、芸術作品を前にしたときの第一印象とはそうした作品の「空気」から受ける印象であろう。最初から「はい、ここに描かれているこれは~を意味していて、こっちのこれは~」となるわけではない。しかしその雰囲気だけで止まってしまうのはもったいない、もっと味わい尽くそう。そうして出てくるのが美術史的な鑑賞である。私は美術史の専門家ではない。絵画鑑賞を娯楽として楽しんでいるだけである。自分の目の前にある絵と、視覚的には明示されていない様々な情報を結びつけ、描かれた当時に思いを馳せる、そうした方が面白そうだから、そうするのだ。
人間の記号的営み一般について書くことを断念して美術館訪問の感想を書こうとしたが、こちらもイマイチ上手くいかなかった。美術館がどんな感じか知りたかったら、実際に足を運んでみてください。私が感じた雰囲気、鑑賞した絵画たちが持つ情報量が多すぎて、言葉で記述すればその多くが削がれてしまう(だからといってそれが書くことを諦める理由にはならないのだが、雰囲気や視覚情報を言葉にすることはそれはそれでフツーに難しい)。ただ、また行きたいと思いました。