取扱注意ー介護概念の定義ー
1.思弁的介護概念と国家意志としての自立支援
介護の概念、理念を「人格的成長、自己実現、無条件の肯定」等々の美しい言葉で飾ることは、百害あって一利なしです。
このような介護それ自体で、「善きもの」とする思弁的定義は、介護概念にパターナリズム(Paternalism;温情的庇護主義・父権的庇護主義)を忍ばせ、介護される当事者を蔑ろにし、不適切介護、虐待/abuseの温床となります。
また、このような介護概念は、介護関係の非対称性、権力性、抑圧性、暴力性を隠蔽してしまいます。
介護の実態を直視すれば、介護は状況次第で、善意の行為、愛の行為、重荷、負担、抑圧、搾取、強制労働など、さまざまな様態になり得るもので、美しく飾り立てた介護概念は現実・実態と大きくズレていますし、介護を考察する上での有効な概念装置になっていないと言えます。
さらに、「介護とは要介護者が自立した日常生活を営むことができるようになることを目的する。」といった介護の目的を「自立」とする日本政府の介護概念は介護を真摯に考えるための装置装置とはほど遠く、国家意志のご託宣にすぎないでしょう。この自立支援は当事者(お年寄り)の自立のために指示的、教育的、パターナリスティックな概念装置として機能しているのです。
2.相互行為としての介護
ILO(International Labor Organization)は介護を次のように定義しています。
この定義では、「依存的な存在」を第一義的なニーズの源泉とすることで、当事者中心の介護概念となっていると言えますし、介護を介護される者と介護する者との間の「相互行為」としているのも非常に重要なポイントだと思います。
この相互行為と言う観点で介護と医療を比べた場合、介護の方が医療よりも相互行為という要素が強いのではないでしょうか。医療は基本的には治す人が治される人の病状を診断し、治療するので、患者は受身になることが多いと思います。
しかし、介護では介護される者の生存に関わる諸行為(食べる、排泄する、衣類着脱等々)に関わること、生活そのものに関わることなので、主導権は介護される側にあるべきだし、介護する側だって奴隷ではないのですから、相互行為的でなければならないでしょう。
3.自立支援が介護の目的なのか
日本政府は介護の目的は「自立」支援にあるとしています。
介護保険第1条は次のようになっています。
介護保険は「要介護者が自立した日常生活を営むことができるようになることが目的」だとしています。
広辞苑によると、「自立」とは他の援助や支配を受けず、自分の力で判断したり身を立てたりすること。ひとりだち。「経済的に自立する」としています。要するに、一般的な言葉の用法として、「自立」には援助を受けないという含意があるようです。
広辞苑の解釈によれば、先ほどの介護保険の目的は「援助が必要な者が援助を受けずに日常生活を営むことができるようにする」ことが介護保険の目的ということになります。
しかし、この日本政府の言う「自立」という概念、言葉の使い方は、かなり特殊な用法ではないでしょうか?
援助の代わりに他の言葉を入れ替えてみるとよくわかります。
「食物が必要な者が食物を受けずに食生活を営むことができるようにする。」
「教育が必要な者が教育を受けずに成長することができるようにする。」「医療が必要な者が医療を受けずに治癒できるようにする。」
「リハビリが必要な者がリハビリを受けずに回復できるようにする。」
定式化すれば「Aが必要な者が、Aを受けずに生活を営むことができるようにする。」となります。
しかし、普通はこのような言い方はしないでしょう。Aが必要ならAを受ければ良い、与えれば良い。介護だけがこのような奇怪な言い方になってしまっています。
再度、繰り返しますが「介護が必要な者が介護を受けずに生活を営むことができるようにする。」こんなのあり?
介護保険は、援助が必要な老人に対し、介護保険の世話にならず(国家の世話にならず)自ら立って生きていくことを推奨しているのです。要するに「介護の目的は介護を受けないようにすること。」となります。
言い換えれば「介護は介護を否定することが目的。」ということです。要支援ならいざ知らず、要介護3以上の重度の当事者(お年寄り)は酷な目的です。
介護保険法の要請を受けて、障害老人の介護の目的を「自立」だとすれば、介護は障害の克服が目的となります。
これでは介護の目的とリハビリテーションの目的が似たようなものになってしまいます。
障害老人はリハビリテーションを頑張って行ったにもかかわらず障害が残ってしまった方々ですが、このリハビリテーションしても回復できなかった障害老人を介護の力で回復、自立させようというのでしょうか。この場合、介護は「奇跡のハビリテーション」ということになります。
私は、「自立」よりも「自律」の方を介護の目的としたいです。「自律」は広辞苑では、「自分の行為を主体的に規制すること。外部からの支配や制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること」となっています。
介護の目的は、障害老人が心身ともに「自立」できなくても「自律」できるように支援することだと思っています。こちらの「自律」こそ、当事者主権の介護にふさわしい目的ではないでしょうか。
「自立」支援は障害老人に「自立」を強制する一方的で指示的、教育的、パターナリスティックな概念装置として機能することになります。
介護の目的が自立支援だとするのは、単に、国に頼るな、「自助、自己責任」だというネオリベラル(注1)的な国家意志の表明に過ぎません。より良い、まともな介護を創っていくためには、国家が望む財政優先の理念である「自立」などという理念との戦いから始めなければなりません。
注1:ネオリベラリズム(neoliberalism:新自由主義)は1930年以降、社会的市場経済に対して個人の自由や市場原理を再評価し、政府による個人や市場への介入は最低限とすべきと提唱する。
4.自立は依存先を増やすこと
私は介護の目的は自立支援ではなく、自律支援だと思っていますが、自立概念を逆手にとり、社会的ネットワーク、活用可能な社会的資源の拡大を図ろうとする熊谷晋一郎さんの言説は魅力的なものです。
永井玲衣(注2)さんは「自立は、依存先を増やすこと」という、目から鱗の熊谷晋一郎(注3)さんの記事を紹介しています。そして、次のように、そもそも何にも依存せずに生きていける人間なんぞは存在しないとしています。
注2:永井玲衣(1991~)哲学研究者。紀伊國屋じんぶん大賞入賞作『水中の哲学者たち』で話題
注3:熊谷晋一郎(1977年~)東京大学先端科学技術研究センター准教授。小児科医。専門は小児科学、当事者研究。
何にも、誰にも依存せずに生きている人間はいない。当たり前といえば当たり前なのです。
人に頼らず、依存せずに生きるという介護の目的である「自立」は現実を無視し、現実を超越してしまっています。
自らも障がい者である熊谷晋一郎さんは次のように述べています。
要するに、人間が依存的存在であることを忘却した先に「自立」があるということです。
客観的には多くの人に依存しているのですが、それを感じないでいることが「自立」ということです。だとしたら、自分は自立していると思っている人間のなんと脳天気なことか。さらに、同氏は、障がい者にとっての自立について次のように述べています。
自立概念は国家にとって人々に「自助、自己責任」を強いる呪文なのですが、この自立概念を逆手にとって、依存先を増やさなければならないとする論理は実に見事な戦略です。
国家のいう自立とは誰にも依存せずに独立することなのですが、熊谷晋一郎さんの自立概念では、依存先を増やしていく、利用可能な社会的ネットワーク、社会資源を拡大していくことになるのです。この結果、自立支援とは依存先を増やしていくことを支援するという、実に新鮮な概念へと転換できています。
斎藤幸平(注4)さんの次の自立概念も熊谷と同様、新自由主義的に汚染された自立概念ではなく、自立の新たな捉え直しと言えます。
注4:斎藤幸平(1987~)は、日本の哲学者、経済思想史家。マルクス主義者。東京大学大学院総合文化研究科・教養学部准教授。(5)権力性を隠蔽する装置(介護の思弁的理念)
5.権力性を隠蔽する装置(介護の思弁的理念)
介護の権力性、抑圧性、暴力性を隠蔽するために、多くの思弁的理念、美しい理念が介護の教育で流布(るふ)されています。
以下に上野千鶴子(2011)『ケアの社会学』(太田出版)を参照し、介護の思弁的概念の問題について整理してみたいと思います。
≪ケアをとおしての自己実現≫
この定義によれば、ケア(以下「介護」と言いかえます。)という行為は介護する者に帰属し、その意味とは介護者自身の「自らの成長」であり、「介護を通しての自己実現」、「生の意味と居場所の発見」であり、ひいては「介護対象への感謝」だとしています。
このような介護の定義は「何々であるべきだ」との規範性を有しているため「介護を通しての自己実現」は強制(強迫的概念)となり、介護を自己実現と考えられない者は未熟者となってしまいます。
≪ケアとは依存的弱者の無条件の肯定≫
上野千鶴子さんは鷲田清一(注5)さんの「無条件の肯定」については「問いかける側」が年少の女性で「応じる側」が年長の男性という設定となっており、ジェンダー的(性差別的)であり、メイヤロフに劣らずパターナリスティックであると指摘しています。
注5:鷲田清一(1949~)は、日本の哲学者(臨床哲学・倫理学)。大阪大学名誉教授、京都市立芸術大学名誉教授。
上野千鶴子さんによると実際の介護は歴史的、社会的、文化的な文脈次第で、愛の行為から抑圧、搾取、強制労働までさまざまな姿を取りうる、個人と個人のあいだの相互関係ということです。
しかし、介護の思弁的理念は介護をそれ自体で「よきもの」とする規範性、介護を扱う際の抽象性と過度の一般化、美化、そして、本質主義、すなわち脱文脈的超越性とそこから帰結する脱ジェンダー性に色濃く塗りつぶされていると同氏は指摘しています。
(参照:上野千鶴子(2011)『ケアの社会学』太田出版 第2章ケアとはなんであるべきか-ケアの規範理論)
介護概念は明らかに歴史的、社会的、文化的な限定性、文脈性を有しています。この歴史的、社会的、文化的な文脈に基づかない、抽象的、普遍的、規範的で美しく思弁的な介護理念は百害あって一利なしでしょう。
それは、「実は介護ってこんなにすごいことなんだよ!」というメッセージであり、確かに介護する者を、励まし、気持ちよくさせ、満足させますが、その反面、思考を停止させてしまいます。
美しい思弁的理念は、介護する者たちを喜ばせるただのご託宣であり阿片なのです。
多くの介護施設の現場を注意深く見れば、そこには介護する者とされる者との権力的、抑圧的、暴力的関係性を見て取ることができます。この介護の権力性、抑圧性、暴力性を真正面から直視しなければなりません。
美しい思弁的理念はこの問題を覆い隠してしまうことで、介護を善行の仮面(パターナリスティック)をかぶった専制的、一方的なものに堕落させてしまう怖れがあるのです。
より良い、まともな介護を創っていくためには、「人格的成長、自己実現、無条件の肯定」などのような介護それ自体で、「善きもの」という思弁的な介護の理念、概念、目標の書き換えから始めなければなりません。
[1] ネオリベラリズム(neoliberalism:新自由主義)は1930年以降、社会的市場経済に対して個人の自由や市場原理を再評価し、政府による個人や市場への介入は最低限とすべきと提唱する。
[2] 永井玲衣(1991~)哲学研究者。紀伊國屋じんぶん大賞入賞作『水中の哲学者たち』で話題
[3] 目から鱗とは何らかのきっかけで急に物事が分かるようになること。《新約聖書「使徒行伝」第9章18節から》
[4] 熊谷晋一郎(1977年~)東京大学先端科学技術研究センター准教授。小児科医。専門は小児科学、当事者研究。
[5] 斎藤幸平(1987~)は、日本の哲学者、経済思想史家。マルクス主義者。東京大学大学院総合文化研究科・教養学部准教授。
[6] 鷲田清一(1949~)は、日本の哲学者(臨床哲学・倫理学)。大阪大学名誉教授、京都市立芸術大学名誉教授。
[7] ジェンダー(gender)とは、生物学的な性別(sex)に対して、社会的・文化的につくられる性別のことを指す。
[8] ご託宣とは、神などのお告げ。 転じて、ありがたい仰せ。