だいじなもの
度々投稿です。前から記事にしたかったことを、身体も時間も余裕がある今書いてみます。(この記事も、以前こんなこと記事にしたいなーってつぶやきに書いた内容とは違うんです。ごめんなさい)
だいじなもの。
The!大雑把!
(韻を踏もうとすな!笑)
前の記事に続けて、今回もインクルーシブの視点から見た『わたしのだいじなもの』について書いてみます。
以前、周りにふと漏らした言葉があります。
「普通」も、「才能」も、「個性」も、「出来る・出来ない」も。そんな言葉は目の前のその人を見えなくする。だから、自分との共通点を探す。何が好き?何が苦手(これは嫌いのニュアンスで)?「一緒やん、気が合うわい」
それを私は探したい。探せる人になりたいの。
「普通だったら〇〇くらい出来るよね?」
普通とは…?「普通」ってそれぞれ違うように捉えてるよね?
「才能」って、周りが思う程本人にとってプラスにならないこともあるよ。むしろ苦しめられることもある。才能ってあるところにはあっても、必要なところ・ほしいところにはないんだよね。
「個性」って、なんという大雑把な表現よ…
障害=「個性」と言われることに対して、信頼関係がある人からの言葉なら、想って下さってるからこその言葉なんだろうなと、私は感じるようになりました。
やっぱり「嬉しいです!ありがとうございます!」と、スムーズには受け取れないのですが…
でも、「障害は個性だ!」って迷いなく大きな声で押し付けてくる方からの言葉には耳を塞ぎたくなります、正直。苦しいです。
「障害=個性」それを言われると苦しいことは多々あるし、その方やその方を支えている方の気持ちが全然見えなくなると、私は思います。
「出来る・出来ない」そこに着目し過ぎると、「〇〇さんは障害があって、これが苦手で、でもこれが得意だから、得意を伸ばして苦手は少しずつ直して…」という見方に陥りやすくなりそうだな、と私は思います。
「出来る・出来ない」以上に、安心できる人が何人かいて、好きなもの、リラックス場所がいくつかあることが、そもそも大切だと身を持って実感しています。
安心できる人がいること、好きなものやリラックスできる場所がいくつかあることは、「〇〇が出来る」以上に私の支えになってくれています。
落ち込んだ時、不安になった時、「〇〇ができる」じゃなくて、上記の3つの存在に私は救われています。
実はこれらのうちのいくつかは自分自身に掛けたい言葉でもあります。
普通にならないと…
何でみんなと同じが出来ない?
「頑張ればみんなとおなじように出来る?は?みんなも頑張ってその中で落ち着いて振る舞おうとしてるのに、私は何言ってんの?」
「普通」、「みんなと同じ」
その言葉で自らの首を絞める様な日々を送っていた高校〜学生時代。
あの人は凄いな、あれも出来て、これも出来る。才能があるんだな。IQが高いって凄い。私平均ちょい下なんだよな(WAIS- IVでわかった自分のIQの数値がコンプレックスでした)
じゃあ、それで人生何もかも決まる訳?
そんなことはない。
ギフテッドの方の悩み。高い水準の能力があるとは、言えどうしても能力間に差があると行動や気持ちのコントロールが難しいそうです。
そもそも、才能で人生は決まらず。地頭で人生は決まらず。
どんなによいアイデアや考えが思いついても、一歩踏み出す勇気が無いと、行動には移せない。
なんなら、障害の有無に関わらず人生は大変なことばかり。
人として、今の世界を生きる中で、
虐待、DV、いじめ、介護、失業、ブラック企業、貧困、病気、突然の別れ、自然災害、感染症 etc…いくらでも頭を抱えて、泣き崩れたくなることはあると思います。そして、それはどんな人にも起こり得ることだと、私は思います。
「出来る・出来ない」それは私が何より囚われていたことでした。
障害特性で聴覚優位。視覚情報の処理が極端に苦手。その見方は確かに一つの答えです。
また、聴覚優位で、言葉を使った学習の力はある。ただ、目で見る細かい情報には見落としが起きやすいことや、急かされることが苦手。その見方も一つの答えです。
でも、それが全てになったら。
障害特性が私を語る上での全てになったら。
他に私に要素は無いの?
ってなります。
つい最近まで、私自身が診断名にこだわるタイプでした。
自閉症スペクトラム障害(ASD)、複雑性PTSD、解離性障害、身体表現性障害、愛着障害、多動衝動性・不注意がともに強いADHD混合型傾向(主治医の先生や心理士さんから発達性トラウマ起因の症状との判別が困難と言われています)
でも、自分を諦めて(受け入れ)いきたいから、自分のことをもっと知りたいと思った時、他にも私を構成する要素があるのではと思いました。
上記の障害名や病名は、これからも便宜上使うことは度々あるはずです。
でも、それが全てじゃないはず。
ということで、図に起こして、視覚化してみました。
見方を変えると少し肩の力が抜けました。
そうそう、好きなことあるよな…推しもいて、数少ない友だちがいてくれて、安心できる人も沢山いて、大事なものもあって、いろんな経験を積んで、やりたいこともあって、趣味もあってさ。
ニガテなことも、キライなものも、
うっわ、まじムリやねん!って思うこともあって。
生まれ持った元の性格もあって、病気で倦怠感が強いから今は鳴りを潜めてるけど体力は割とあるタイプだし、今まで運動経験が多いから基礎代謝量も割と多いはず。
ひとりの人間にも色んなパーツがあるよね。
勿論、脳内のエネルギー源を消費している割合は複雑性PTSDやASDがデカくて。
難しいけどね。
でも、障害と病気が私を構成する全てじゃないの。
そして、将来、障害がある方と関わる仕事をしていく中で、この視点は凄い大切だと思うから、自分を練習台にして試行錯誤だね。
共通点を探す。
「好きなキャラクターは?クロミちゃん、いいよねぇ〜」
「冬が好きなの!いいよね!暖かいココア美味しいもんね〜」
「算数・数学がムリ、わかる〜
計算ドリル5周とかプリントじゃなくてもっと楽しく勉強したいよね。」
「大きな音キライ。いやそれな?怖いもんね、クラクションとかなるべく鳴らさないでほしいよ、ほんとさ」
こんな感じで目の前の相手との共通点を探してみる。
「好きなことやキライなことは、その子と打ち解けるとき、話題として使いやすいよ」と特別支援学校で先生をされていた方から伺いました。
共通点を探すことは、自分や相手を知ろうとする上での凄く大事なポイントだと思います。
タイトルにした「だいじなもの」
それは、障害や病気がある人、困難を抱えている人と関わる中で、障害名や病名、抱えている困難の内容という視点からその人を見つめるだけじゃなくて、
それら以外でその人を構成するパーツも知ろうとすることだと私は思います。
どう頭を捻っても、相変わらず稚拙な文章しか書けなくて、すみません。
最後までお読み下さってありがとうございました〜☺
追記: 9/20 17:00
2枚目のメモ画像に盛大なミスを発見して書き直したメモを改めて貼り付けさせていただきました。誤字脱字ばかりで申し訳ありません。
です。
申し訳ありません。