「褒められたいから頑張る」は長続きしない
ご覧いただきありがとうございます😊
鈴木です。教育関係の仕事に就いております。
褒められることって物凄く嬉しいですよね。自分の頑張りを認めてもらえた気持ちにもなりますし、「次も頑張ろう」といった活力にもなります。
ただ、この”褒められる”という行為を過剰に求め過ぎるのは危険かもしれません。今日はそのことについて、自身の経験を引き合いに出しながら書いてまいります。
●「褒められたいから頑張る」は長続きしない
「〇〇さんに褒められるために頑張る!」ことをモチベーションにしながら仕事や勉学に励んでいる方、一定数いらっしゃるかと思います。
ちなみに、私の学生時代がまさにこれです😓先生や親に褒められたいがために勉学や部活に取り組んでいました。
その結果どうなったか。
「褒めてくれる人」は、何かをきっかけに違う人へと変わります。するとその時点でモチベーションが消失します。
また、年数や経験を重ねるにつれて「これまで褒められていた行為」が、特段注目されない行為に(相対的に)成り下がっていきます。
(例えば、小学校1年生で九九ができたら大いに褒められますが、中学校1年生で九九ができたとしても褒められません。)
すると「もっと褒められることをしないと」と思うようになるのですが、それがめちゃめちゃ精神的に苦しかったです😓 最終的には「どうせ自分はできない」と勝手に無能の烙印を押し、やる気が消えていきました。
「褒められたい」という一見真っ当な動機からスタートしているにもかかわらず、恥ずかしながら上記のような帰結となりました...
果たして何が問題だったのでしょうか...?🤔
●どこかのタイミングで、内発的動機へ切り替える
これらの正体が”外発的動機”と呼ばれるものだと知ったのは随分後になってからでした。
人のモチベーションを喚起するための入口として人参作戦(外発的動機)は有効ですが、先ほど書いたようなことを理由に、それらはいつまでも長続きはしません。
継続していくためには、どこかのタイミングで「それ自体をやる喜びや意味、理由、目的(すなわち、内発的動機)」を発見する必要があります。
また、内発的動機は「変化の激しい時代を、自分らしく生きていくための道標」にもなります。
だからこそ、幼い頃(できれば小学生の内)から内発的動機に気付いたり、それを育んだりする経験が必要になってくるのではないかとも感じております。そこで最後に、褒める側として心がけたいことを書いていきます。
●内発的動機を引き出せる人に
褒める側に身を置く人(教育者など)としては、褒められる側の内発的動機を引き出すような関わりや問いかけができるか、が今後のキーになっていきそうです。
そのためには、「相手の関心事がどこにあるのか」を思い巡らすことが大事だと個人的には思います。
何が好きなのか、
何が得意なのか、
何が嫌いで何が苦手か
それらをもとに今やっていることが将来どのように繋がっていくのかを提示することができたら、「褒められたいから」で出発した外発的動機が、「将来のためにこれを学びたい!」といった内発的動機に繋がっていくかもしれません。
そんなこと考えていた週末でした。
今日もご覧いただきありがとうございます😊
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