私が占い師になったワケ(闘病記②中学生時代)
今日も朝から3日坊主にならないようにする為、占い師養成講座を開講する前にnoteを開く。
とは言えども、中学生時代に積極的な治療を試みた記憶はなく、2005年に書き綴っていたノートパッドには、この頃から右足の激痛に耐えることができなくなり痛み止めを服用するようになった、と記されていた。
おそらくロキソニンのような痛み止めが処方されるようになったのだろう。
今思えば、この頃から整形外科だけではなく、膠原病科(リウマチ内科)も受診するべきだった。
そうすればもっと何か治療法があったかもしれない。
中学にあがると体育の授業には全く参加できなくなり、絵を描くことが苦手な私は吹奏楽部を選ぶしかなかった、と書かれている。
さらに病名が判明したのにも関わらず、水泳大会やマラソン大会で仮病扱いされたのには納得がいかなかった、とも。
あの頃の私はまだ小学生の頃の主治医が「大人になったらきっと治るから」と言ってくれた言葉を信じて疑わなかったのだろう。
のちにそれが誤診であると判明する日までは。
追記 この頃もかなり右足に痛みがあったが、学校が終わるとどうしても行きたいLIVEが東京であり、右も左もわからなくても、東京新宿の日清パワーステーションには群馬からよく通った。
大好きな久保田洋司君のLIVEを見に行き、大好きなムーンライダーズの岡田徹さんを付近で発見し。
「ファンなんです」と言ったら「随分と若い人がファンでいてくれて本当に嬉しいよ」と言ってサインを書いてくれた。
今ならばきっと未成年はこんな時間にLIVEハウスなど入れないのだろうな。
通っていた新宿LOFTが移転騒動をふと思い出す。
そう言えば私は下北沢のロフトでも歌っていたっけ。
江古田のマーキュリーも今となっては懐かしい思い出である。