横光利一「頭ならびに腹」
なんか家に帰ってきたら、急に何かを書く気力満々で、気持ちとは現金なものだなあと思いました。
横光利一の短編「頭ならびに腹」は、「新感覚派」の旗手である彼の、新感覚が凝縮された一編と言われます。
この書き出しは、よく、「新感覚」的表現の一例として、取り上げられます。
話としては、そこから、車内で小唄のようなものをいつまでも唄っている小僧に焦点があたり、皆も最初は興味津々で見ているものの、だんだん飽きてしまう情景が活写されます。
列車は途中で止まり、運転見合わせのアナウンスがなされて、群衆は慌てふためきます。そして、大きな腹を持った金満風の乗客が、振替乗車に応じると、多くの頭がそれに準じて、みんな振替輸送の方に行ってしまい、残った車内には例の小僧がだけがおり、あいもかわらず小唄を吟じています。
すると、車掌が、確認取れたので動き出しますと、案外早いアナウンス。小僧だけが、面倒な振替輸送ではなく、ガラガラの車内で一人、急行に乗って、誰もいない車内で吟じ続ける、といった結末で終わります。
これを読んで、私はフリオ・コルタサルの「南部高速道路」を思い出しました。
高速道路の渋滞の中で、それぞれのドライバーが、ある問題を解決するために繋がって、いろいろな事件や出来事が起こり、そして、渋滞は徐々に解消され、またバラバラに散っていく、コルタサルの後味の悪さを伴う爽やかな幻想譚が「南部高速道路」でした。
またコルタサルの『石蹴り遊び』は、数十の断章を、どの順番でも読んでも、一つの物語が浮かび上がるという実験的な長編でした。それに、例えば「蠅」は漸近しているようにも思えます。
もちろん、世代や時代、生きた社会背景は異なるので、一概に同じとは言えません。けれども、群衆のマッス(塊)をマッスそのものとして、捉えようとしている、個々の人間の関係をメカニズムとして捉えようとしている点については、コルタサルも横光も、モダニズムを受容した結果として、入力が同じで、出力がちょっと違うだけ、という感じがします。
この2作、どうぞ、比較対象して、お読みになっていただければ。