学校に行かないという選択。「〈習い事〉は、子どもたちに何をもたらすのか?」
ピアノが好きな二男についての記事はこちら。
ピアノが好きな二男。
彼が習っているのは、ギターだ。
彼は、ギターの練習を殆どしない。
ギターのレッスンに行くことを嫌がることなく、1年以上続けている。ピアノも好きだが、ギターも好きで、もっと弾けるようになりたいと思っているようだ。
二男が、ギターを習い始めるまでには、別々の教室の3人の先生による体験レッスンを受けた。
初めに体験レッスンを受けたのは、長男がトランペットを習う事が決まった音楽教室だった。
受付の方とも顔見知りで、家からバスで1本で行けるショッピングセンターの中に入っており、バスに乗る時間も10分ほど。慣れたら一人で行き来できるなぁ、などと、大人の都合も少なからず頭をよぎった。
ギター担当の先生は、50代位の方だった。
二男は、オリジナルの呼び名を考えるのが得意だ。
先生は、金色の長髪を束ねており、ややパサついた金色の毛先がトウモロコシのひげに似ているからと、二男は、密かに「トウモロコシヒゲ先生」と呼んでいた。
真面目そうな方で、一番初めに「何でギターやろうと思ったの?何かしら理由があるはずだ。理由は必ずあるんです。」と二男に質問する先生。
二男が「う〜ん・・・」と困った末に、「・・・先生、何で髪がトウモロコシなの?」と逆に質問した。
機密情報であったコードネーム「トウモロコシヒゲ先生」、早くも暴露。
先生!そこ、笑うところです!!
私は、心の中で叫んだ。
しかし、先生は、あっけなくスルーした。
いや、いいんですけどね。
いいんですけど・・・・。
次の体験レッスンは、オーナーが一軒家で、音楽教室を運営している所だった。
その教室では、ギターだけでなく、ウクレレ、ピアノ、ドラム、ボーカルなど、幅広く教えているようだった。
家からは、車で25分。公共交通機関で行くには、バスと電車を乗り継ぎ、さらに、最寄り駅からもちょっと距離がある場所だ。ここを選んだ場合、送迎は必須である。
こちらのギター担当の先生は、二男のゆっくりペースを急かす様子もなく、椅子の高さが変わることを知った二男が、椅子を高~くしたり、低~くしたりすることが、楽しくなってしまっていても、「この椅子、スゴイよね。オモシロイよねぇ。」と言ってくださり、和やかな空気のな中、体験レッスンが終わった。
二男は、先生に、「オキモノオキ先生」と呼び名を付けた。
その教室には、楽器モチーフの置物がたくさんあったことが由来らしく、先生がどっしりとしていて、置物のようだったからではない。
その後、ギターを習う、習わないについて、特に二男から話はなかった。
さらに数週間経ってから、「ギターどうするとか、考えてたりする?」と二男に尋ねると、「まだ決められないなぁ。だって、二人の先生にしか会っていないし。」とのことだった。
そうか。
選択肢は多いほうが良いってことよね。
それは、そうだ。
そこからさらに、ギター教室を検索し、なるべくお互いに負担なく通えそうな場所を探した。
二男は、自分でやりたいやり方を優先する傾向がある。
スキーもそうだった。良かれと思って夫が基礎的な事を教えようとすると、型にハマる感じを窮屈に思うのか、段々と不機嫌になってくるのだ。
キッチリし過ぎていると、二男が嫌になる可能性も拭えないので、楽しさを優先してくれる先生だといいなぁ・・・と漠然と思いながら探していた。
しかし、近いところとなると、なかなか見つからない。
長男のトランペットの先生は、ジャズバンドにも参加していたり、他のミュージシャンの方とも交流がある様子だった。
そこで、二男がギターを習いたいと言っていることを伝え、「体験レッスンさせていただけるところをご存知でしたら、教えてください。」と、お願いした。
暫くして、トランペットの先生から「同じジャズバンドに参加しているギタリストの方が教室をやっているようなので、連絡を取ってみたら体験レッスンできるみたいです」と連絡先を教えていただき、早速、体験レッスンの予約をした。
その先生はレッスンを貸しスタジオで行う形を取っていて、街中のスタジオで待合せとなった。
地下にある貸しスタジオ。久々のこの独特な空気感。ライブハウスに通っていた高校生時代をふと思い出した。
現れた先生は、おそらく30代前半、トランペットの先生の事前情報によると「背の高いイケメン」。因みに二男は、「キツネカオ先生」と呼んでいた。
やや目がキリッとしていたからだろうか。全体的な印象が、絵本などに描かれる「キツネ」に似ていると私も思ったので、二男の呼び名がしっくり来ている気がした。
この教室を選んだ場合、毎回貸しスタジオの予約や、繁華街でのコインパーキングの利用を余儀なくされる。
自力で通うには、バスと地下鉄の乗り継ぎ、加えて街中の地図が頭の中に入っていないと難しいかもしれない。貸しスタジオの場所は、繁華街なので、子どもを一人で送り出すには、気がすすまない。こちらも送迎必須である。
先生に、「お母さんも見学されますか?」と聞いていただいたが、習うのは私ではなく、二男である。さらに、二男は、察しが良い所があるので、私が同席することで、私が口に出さずとも私の感じたことを感じ取り、彼の感じ方にまったく影響しないとは言えない気がしたので遠慮した。
30分程のレッスンは、楽しく過ごせたようであった。
3回目の体験レッスンを終えるも、まだ二男の中で「この先生からギターを教えてもらいたい」という決断には至らないようだった。
まあ、何にしても、自分で納得して決めるのがいいと思うし、もっと体験レッスンを受けるのもありだと思っていた。
そして、その後、どの先生にギターを習うかを彼なりに考えていたようで、彼の中の〈オモシロバロメーターによる計測の報告〉があった。
「トウモロコシヒゲ先生は、おおむねフツウ。」
「キツネカオ先生は、半分オモシロくて、半分フツウ。」
「オキモノオキ先生は、おおむねオモシロイ。」
「おおむねオモシロイ」と感じたオキモノオキ先生にギターを習いたい、と自分から言いだした時は、体験レッスンから4ヶ月以上が経過していた。
しかし、概ね、って。
習い事というものが続いたためしの無い私は、子どもたちが、習い事をしたいと言い、続けていることそのものが、尊敬すべき事柄であると思っている。毎朝30分間きっちりとトランペットの練習を欠かさない長男など、驚くべき存在だ。
ちなみに、〈練習したら?〉と、子どもたちに言ったことはない。
もっと上手くなりたいというモチベーションがあれば、自分で練習するだろう。今のところ、トランペット奏者になろうとか、ギターで世界に羽ばたくぜ!とか、そういったことを考えている訳でもないようなので、自分で楽しいと思えればいいのではないかと思っている。
私は小さい頃に、お茶、三味線、茶道、そろばんなどを習っていた。しかし、どれも長続きせず、よい思い出がひとつもない。
そこに感じていたのは、「その時間に拘束されている」という窮屈さと、「練習しなくてはならない」というプレッシャーだったと思う。自分の気の向くままに好きにしたい、ということは、今も変わっていない。そして、それを越えてまで、「やりたい」「好きだ」という熱意が私には無かったのだと思う。
私のそんな記憶とは関係なしに、子どもたちは、それぞれに習い事を楽しんでいるようだ。
ちょっとづつ上達する喜び、先生とのやりとり、自分だけの時間や空間を味わっているように見える。違う人間なのであたりまえなのだが、習い事へのスタンスが、自分とはまったく違うということが、面白くもあり、感心することでもある。
長男も、二男も、体調を崩した時以外には、「行きたくない」「休みたい」と言ったことが一度もない。
なんとなく「面倒だなぁ。」と感じている時はあるようだが、習い事って、そんな側面もあるものなのだと思う。それでも、最終的には、「さ、行くか。」「先生、待ってるし。」と出掛けていく。
「自分でやると決める」ということは、こういうことなんだな、と感じさせてもらっている。
そして、何より、教えてくださる先生方の存在が、ありがたい。
先生方のお人柄が、彼らの習い事へのハードルを下げてくれているのだと思う。
「何を教わるか」は、大事だ。
「誰に教わるか」は、もっと大事だと私は思っている。
子どもたちが、〈音楽・音を楽しむこと〉を伝えてくださる方々に巡り会えたことは、とても幸運だと思う。
そして習い事は、社会を感じる場、社会との接点のひとつでもあるのだと感じている。
一人でも多くの子どもたちが、〈素敵だなぁ〉と思える大人との出逢いの場であったらいいなと思っている。
技術を習得すること、上達していく喜びもあるだろう。
でもそれにも増して、素敵な大人との出逢いは、社会への信頼感の礎となる。
「大人になるのも悪くないかもね。」
そんな風に感じられたら、習い事の経験は、子どもたちにとって、何よりの財産になるだろうと思っている。
※ヘッダーの画像は、二男がお絵かきパッドで描いた「ギターたち」です。