漫画みたいな毎日。「失ってから気付くなんて遅くない?」
先週の出来事。
末娘の風邪が、二男に感染ったようだ。
「喉が痛い・・・」といつも以上に言語化が難しくなっており、とにかく喋らないで、喉の傷みをどうにかしようとしている。
雨の日で少し寒い。
「今日は、ご飯食べないで寝る。」
二男は、夕飯を食べずに早々に布団に入ってしまった。
4人で囲む食卓は、静かだ。
二男がいないと、静かだ。
なんというのだろう、空気がオレンジから水色になった感じ。
体感温度も下がっている感じ。
「なんだか、寂しくなっちゃった。二男がいないと寂しい。」
いつもは二男と喧嘩ばかりの末娘が呟く。
「二男が、いなければいいのに!」と、毎日プリプリ怒ってますよね?と思いつつ、笑ってしまった。
居なくなって、初めてその存在感に気がつくこと。
あるよね、そういうの。
そこに居るのがあたりまえなのが、日常だから。
だったら、毎日喧嘩しなくてもいいのに・・・と心の中で思うけれど、まぁ、そんなものだよね。
急にその存在を感じられなくなった時の、ぽかんと穴が空いたような、あの感覚。
喧嘩ばかりだし、お互いに自我をぶつけ合って、どうでもいいことなのに譲れなくて。
「そんなこと言ったって、また二男が元気になったら、喧嘩ばっかするんだろうけどね。」と長男。
「居なくなってみて、失ってわかることがあるんだよ・・・。」と夫。
あるのか?夫!そんな経験が?!
「あぁ、だから妻に出ていかれて初めてその存在の大きさに気がつく夫がいるんだろうね。時既に遅し、ってね~。」とやや皮肉交じりの私。
「え?居なくなんないとわかんないもんなの?それって、おかしくない?」と長男。
大事なものは、大事だろ。
なんで、大事だと思わないの?
なんで、大事にできないの?
めちゃくちゃ正論。
正論が人を傷付けることもある。
だけど、そんな長男の骨太な感じは、嫌いじゃない。
こんな時、自分の侍遺伝子をバリバリに感じる。笑
決意した別離でなくとも、いつの間にか傍には居られなくなくなってしまったり、物理的な距離が離れてしまうこともある。
長男が生まれる時にお世話になった産科医の方が、こんな話をしていた。
「子どもに対して、苛々を募らせたら、〈急に、この子が目の前から居なくなったら〉と想像したら、大抵のことは、たいしたことじゃないな、と思えると思いますよ。」
縁起でもないことなのかもしれないけれど、誰でも、明日どうなるかなんてわからない。
未来を疑わないのは、子どもたちには当然のことで、それはしあわせなことだと思う。
目の前にあるものすべて流れていく。
今を抱きしめること
今できることは、ただそれだけなのだと思う。
人生の折返し地点を過ぎていると思われるオバサンとしては、未来を憂うことなく、子どもたちがズンズンと進んでいく様子をもっと見たい。
さて、まずは、お腹空いた~!という子どもたちの胃袋を満たすことから。