漫画みたいな毎日。「夏至の日に思う。」
書きたいことは色々あるのだけれど、どう書いていいものかと、悩ましい出来事が起きたり、近所で熊出没注意が続いたり、子どもたちそれぞれの要求や用事や、状況に合わせて対応したり、子どもの体調が悪くなったり、つぶやくばかりで、ちっともまとまった言葉を書けずにいた。まとまらないのは、状況だけではなく、私の心持ちもそうだったのだと思う。
夏至を迎えようとしていたその時期、他のnoterさんの記事を拝見していても、「夏至に向け人間関係の整理」「新たな人間関係の構築」と書かれているのを目にしていた。
私も、全く意図していない所で、そのような流れの中にどっぷりとはまっていた。
3年程前に、長男とこの様なやり取りをしていたのか、と過去記事を読み返していた。
この所の私は、まさに、「世界で一番面倒臭い」ものである、「人間関係」の渦の中に身を置いていた。今までなら、その渦を遠巻きに見ていたり、上手いこと避けて通ってきたつもりだったのだが、何故か現在、その真っ只中に居る。
疲れる。
ものすごく疲れる。
誰かの正しさとか、正義とか、そういったものを毎日見ているし、聞いている。傷付いたとか、傷付けたとか、被害者だとか、加害者だとか。
人によって真実も、見ている景色も、見たい景色も違うから、やっぱり同じように理解できるはずはなく、簡単にわかるとも言えない。
自分も自身の正義を振りかざしているんじゃなかろうかと、細心の注意を払ってるつもりでも、きっと何処かで自分の正義を振りかざしているのだろう。
知らないうちに。無意識に。
いろいろな出来事を見つめていたら、自分が存在しているだけでも、誰かを傷付けていることってあるんだろうなどと考え、思春期に戻っていく、いや、ずっと思春期のままの自分の一部がまた色濃く顔を覗かせて、沸々と浮かんでは消えていく。
人ってわからないものだ。
人はわかりあえない。
それは、否定的な意味ではなく、私は、簡単にわかりあえる気になっていたのかもしれない、ということを感じているということ。
本当の理由は、その人にしかわからない。
無意識にも傷付けてしまったことには、申し訳ない気持ちでいるのだけれど、長い時間をかけて積み重ねてきた関係性とは、こうも簡単に、あっけなく終わりを告げるものなのだと驚く。
時間と関係性を積み重ねてきたと思っていたのは、私だけだったのかもしれない。
起きた出来事を友人に話したら、「その人は、自分の軸がブレないけいこちゃんに傷付いているのだろうね。」と言われた。「伝える相手と伝える内容を間違えちゃったんだよ。」と。
あぁ、そうなのか・・・と、静かに静かに納得した。
日々、なんとなく元気低下している私の様子を察して、子どもたちは私を観察している。誰も「何があったの?」とは聞いて来ないし、通常通りの生活をしてくれている。
「握手。」
突然、長男が大きくなった掌を差し出し、握手を求めてきたので、その掌を握り返すと、その掌にギュッと力を入れ、「ま、気にすんな、って言っても、気になる人にそんなこと言っても無駄だってわかってるけど、気にすんな。」とニヤリと笑った。
大人だって色々ある。
子どもたちには、綺麗なものだけを目にして育って欲しいと願う気持ちが無いわけではないけれど、人の生きている場は、それでは済まないことも沢山ある。楽しいこと、嬉しいことを根底に置いて、その上でいろいろあることを感じていくのだろうと思う。悲しかったり、辛かったり、嫉妬や羨望、絶望もあるかもしれない。傷付けてしまったり、傷付けられたと感じたり。言葉にならない機微がある。
そういうことを、ひっくるめて、どうやって人間が、大人が、私が日々を暮らしているのか、なんとなく見てもらえばいいと思っている。
「むやみやたらと人を傷付けていいとかではないし、傷付けた側が、傷付くのは相手の受け取り方の問題だとか、そういうことでもないし。でも、自分の場合は、〈傷付いた〉とか〈傷付けられた〉と思った時って、最初は多少なりとも、相手を責めたくなったりする気持ちにもなるんだけど、やっぱり、傷付けられたと思う自分の中には何があるんだろう、ってところに行き着くんだよねぇ・・・。」
私が長々つぶやくと、黙って聴いていた長男が、「お母さんを傷付けた相手はラッキーだね。」と笑った。
ラッキーって・・・笑
「だって、フツーは、っていうか大体は、自分が傷付けられた、って相手を悪く思ったりするんじゃない?」
「まぁ、そういうことも全然ないってことではないけど、その奥に何があるのかな、って思うよね。何か言われて、自分が傷付いたとして、傷付けた相手がそこに至るまでの心境とか、状況とか。その後、どうしているのだろうとか、考えちゃうよね。」
「そういうの珍しいと思うけど。」
「珍しくもないんじゃない?まぁ、自分のためにそうしないと居られないだけだからね~。」と私が笑うと、
「人間関係ってホント、面倒くさいけど、でも、まぁ、良いものもその中にあるもんね。」
長男が、ちょっと笑って、そう言った。
大きくなったなぁ、と思いながら長男を眺め、これからも面倒臭いことが多々起き得る人間関係の中で生きていく子どもたちが、その間で生まれ出てくる佳きことも、たくさん享受させてもらいながら、逞しく、そして美しい姿勢で生きて行けることを願って止まない。
世界で一番面倒臭いと思われる人の間で暮らしながら、豊かな人間に育っていくと信じていたい。