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#044郡長排斥運動から見る近世と近代の相克ー論文執筆、落穂ひろい

 今回は、自身のライフワークの一つとも言える、郡長、郡役所研究についての落穂ひろいを。

 これまでも紹介してきました、明治期に大阪府で郡長を務めた最長不倒記録を持つ深瀬和直という人物。その史料は、ご子孫からの聞取りによると、蔵の建て替えの際に処分したものだったようです。蔵の中というのは、普段使わない物を保存しておく場所ですので、季節ものであれば夏、冬に出し入れしますが、普段の生活にかかわりのない物であれば、死蔵しているということがままあります。この流出した史料も、いらないものとして処分されたものに含まれていたようで、処分する業者が古書店へ持ち込んだようでした。ご子孫によると、大礼服なども残っていたようですが、きれいに保存していなかったので、同じく処分されたとのことでした。

 この深瀬和直に関わる文書、「深瀬文書」は深瀬和直の大阪府庁詰め時代から最終任地の西成郡役所時代にわたる事務文書で、郡長の手控えであったという性格の史料です。この史料が発見された際に、それなりの分量でしたので、初動調査は関連する自治体史の編纂室の協力で概要をつかむことを行い、それぞれの自治体史の本で必要な史料を使用するという、つまみ食いを先に行いました。その後、全体像の把握については、一人では史料の整理がつかないと思い、当時関わっていた研究会の若手に声をかけて、この史料の調査、研究をするグループを作りました。名付けて「関西郡部研究会」。それぞれ関西在住、研究対象も関西の近現代を取り扱っていたので、それぞれのメインで行っている研究にプラスになるような形で調査、研究を手伝ってもらうという緩やかなグループ作りを行いました。総勢8人のこじんまりとした集まりでしたが、月に1度、それぞれが史料の中から自身の拾い上げてきた史料をそれぞれの問題意識でテーマを設定して分析する。そういう研究会を積み重ねて、作り上げた成果が下記の「深瀬文書目録・改題」です。1年程の短い期間でしたが、毎回提示されるそれぞれの視点が面白く、なかなか有意義な時間を過ごすことが出来ました。

 こちらの目録が完成することで、誰にでも自由に閲覧してもらえる環境が整い、より研究がしやすい環境になった訳ですが、それでもなかなか郡長研究、郡役所研究の深化は一朝一夕で進むものではありません。筆者としては、より広く知っていただきたいということもあり、深瀬文書を使用した論文を何点か書いています。その一つか下記URLの一編です。

 まずは深瀬和直自身について知ってもらおうということで、履歴をきちんとまとめることを行いました。深瀬和直は、嘉永元年(1848)に土佐藩で生まれた人物です。彼の家は土佐国高岡郡津野山郷(現在の高知県東津野村、檮原村)の領主であった津野親忠(長曾我部守親の兄)を先祖としており、慶長年間以降は吾川郡弘岡村(高知県春野町)に代々居住し、後に高岡郡新居村に別家を立てた人物が直系の先祖となっています。深瀬家は文化6年(1809)に土佐藩国老柴田織部勝榮の家臣となり、土佐藩の陪臣として仕えました。深瀬和直の父・重次郎直形は土佐藩陪臣として明治維新を迎え、明治元年(1868)にはそのまま土佐藩の直臣に採用され、書記的職務や戸籍関係の事務担当官として活躍しました。

 目を転じて深瀬和直自身の経歴を見てみると、文久3年(1863)、16歳の時にに武市半平太を盟主とする「土佐勤王党」の血判連名簿に名を連ねています。血判連名簿は『武市瑞山関係文書』などに掲載されている、いわゆる「土佐勤王党血盟者姓名簿の写」です。こちらは現在原本は行方不明と言われており、書籍の活字翻刻などで見ると192名(簿外に8名記載のため、都合200名の名前が掲載されている)の志士たちの名前が記載されている史料で、武市半平太や間崎哲馬、河野敏鎌、坂本龍馬、中岡慎太郎などの著名な志士たちの名前の中に93番目に「深瀬哲馬和直」と記載があります。つまり若かりし頃の深瀬和直は幕末の頃には土佐勤王党の一員だったということが判ります。しかしその頃の活動については何ら記録が残されていません。『河内忠勤つゞら』という郷土史の本には、幕末の頃には幾度となく死線をかいくぐってきたとの記載がありますが、実際のところは幕末の業績については今のところ詳らかではありません。土佐勤王党に所属していた頃の活動については全く判りませんが、土佐勤王党は上層下士、下層下士により約7割が構成されており、陪臣は約1割でしたが、その大半が佐川深尾氏の家臣でしたので、深瀬和直の立場は、党内では少数派のうちでもさらに少数派であったと言えます。とはいえ、恐らく武市半平太には相当傾倒していたのではないかと想像されます。というのも、武市半平太は幕末江戸の三大道場の一つ、桃井春蔵の鏡心明智流の道場・士学館の塾頭に任命されるような文武両道の秀才で、今でいうとおそらく東京の主要な大学を首席で卒業したといったような印象を受ける、いわば地元の誇るべき先輩として、後輩の深瀬和直はあこがれをもって見ていたでしょう。また、明治維新以降、フランス式軍事教練を深瀬和直は受けますが、その後、洋学などの方向には進まず、国学、漢学に長じた人物として知られるようになっていき、訃報を知らせる「大阪朝日新聞」大阪版昭和4年1月6日付の記事には「横文字を解するものを腐つた魂の持ち主だと罵るといつた極端な国粋論者であつた。」と記されており、生涯国学、漢学などを中心に据えた古典的教養の深い人物であったことが読み取れます。あくまで筆者の印象でしかないのですが、武市半平太から筆者が受ける「革新の中の保守」といった印象、個性を引き継いでいるように筆者は感じます。

 深瀬和直自身は、「新撰浪華人物誌」に「書 天王寺村 深瀬和直」と記載されるような、一廉の能書家として世間に知られていたようで、「桜井駅玉垣建設記念碑」(1894年、大阪府島本町に現存)、「二番樋改修記念碑」(1888年、大阪府柏原市に現存)、「西村市郎右衛門碑」(1916年、大阪府八尾市に現存)、「南河内郡長武藤剛墓碑」(大阪府富田林市に現存)などの様々な記念碑の揮毫を引き受けており、現在も各所に散見されることでも明らかでしょう。

 また、最近明らかになった史料で、深瀬和直の厳格さ、謹厳実直さを示す史料も出てきました。深瀬和直は明治19年(1886)に丹北、河内、高安、若江、大県、渋川六郡役所の郡長に就任します。この時期に、理由は不明ながら地域住民から転任の請願が出されるという事件が起こりました。現在でいうリコール運動です。深瀬和直は何らかの理由で地域住民たちと対立し、排斥運動を受けることになりますが、結果として明治26年(1893)まで任期が続くので排斥運動は失敗したのでしょう。明治26年の異動に際しては、それまでに地域との関係改善がなされていたようで、「能く郡内の事情に通じ、棉花その他の農作毎に水干に害せらるゝを憂ひ、此が耕作法改善の策を講じて已に成り、此より発達せんとするに臨みて斯く其人を更ゆるは農業上甚だしき不幸なればとて留任せしめられんことを請へる」(『大阪朝日新聞』明治26年6月6日付)とあるように、農業や治水に尽力して、地域の農業生産に深く関わって、その功績が大きいので異動させないで欲しいという、地域の村長らの希望が出たとの記録があります。ここではなぜ排斥運動が起こったのかの理由などは記載がないのですが、後には地域のために尽くすことが評価されて異動の反対に変化したんだ、ということのみを論考の中では指摘するにとどめました。

 最近見つけた史料では、その地域の排斥運動に至る遠因になったのではないかという内容のものが出てきました。以下は、深瀬和直の大阪府庁時代、兵事課に勤めている時の出来事になります。大阪府では各地で徴兵検査を行う時に、府庁詰めの兵事課職員が立ち会っていたようで、徴兵検査のたびに職員を各地に派遣していました。先の六郡の郡役所での徴兵検査の機会に職員を派遣することになったのですが、その職員は府知事が別件で出張することになったのでついていくと言い出して、部下にその旨を伝えて徴兵検査の立ち合いに代わりに行ってもらう指示を出しました。その頼まれた職員が徴兵検査の立ち合いに行こうとするのですが、その同僚だった深瀬和直が、交代する時は上席の職員でないと内規で決まっているので交代することが出来ないと指摘します。頼まれた職員は、やむを得ず他の上席職員に交代を依頼して現地へ立ち合いに行ってもらいました。現地では、立会の職員が到着した時にはまだ全く現地の徴兵検査担当者もいなければ、徴兵検査に該当している青年たちも来ておらず、府庁からの派遣職員はずいぶん待った後に、検査該当者たちが現れて徴兵検査が始まった、とのことでした。この一連の出来事を、最初に交代を依頼した職員が、事後に深瀬和直に指摘されて大阪府庁内でちょっとした騒動になってしまいます。

 この出来事の問題点としては、1)立会職員の内規をきちんと職員が把握していない、2)そのために派遣職員の交代が何度も企図されて、現地への到着が遅れた、3)現地の徴兵検査担当者が開始時間に集まっていない、4)徴兵検査該当者も時間通りに集合しない、という4つの問題点があり、これらをきちんと守っていないから問題なんだと深瀬和直が指摘しています。これらの4つの指摘は、非常に近代的な指摘と言えるでしょう。というのも、決められた法律やルールに則って事務は進められていくという近代法治国家では当然のことが曖昧になっている、時間の厳守がなされていない、という現在では当たり前のことが、この当時には守るという意識が薄かったと言えるでしょう。この点については、なぜこのようなことが起こるのかというと、江戸時代にはもちろん法律や事務的なルールはありますが、意外と杓子定規に守られていなかったのではないか、ということと、時間の厳守については、江戸時代は時計を皆が持っていないこともあり、「子の刻に集合」となると、子の刻とは現在でいう午後11時から午前1時までの2時間を指すので、この2時間の間に集合出来ればいいという、現代と比べて時間の感覚が曖昧であったという習慣に基づいているためだと言えます。つまり、時間通りに集合出来ない「遅刻」という概念は明治時代以降に誕生した、と言えるわけです。簡単に言うと、時間を守る、規則正しい生活をするという感覚は、明治時代の徴兵制と学校教育によって全国津々浦々に普及したという概念だった、という、明治時代以降の産物なんだ、ということです。この点は橋本毅彦、栗山茂久『遅刻の誕生ー近代日本における時間意識の形成ー』(三元社、2001年8月)という魅惑的なタイトルの本に詳しく書かれていますので、ご興味のある方は読んでみて下さい。

 少し脇道に逸れましたが、つまり深瀬和直はルールや法律には非常に厳格で、時間に対するルーズさを許さない人だったのではないか、と考えられる訳です。明治時代になってもまだまだ日本の主な産業は農業だったので、24時間制や七曜制に基づくよりも、農事暦に基づいて一般の地域住民は生活していました。そのため、学校の休日に従うより、農事歴でのいわゆる「農休み」に従って休むなどという、江戸時代さながらのことがまだまだ広く行われており、学校は登校しないといけない日に勝手に休んでしまう生徒に苦慮している状態が長らく問題となっていました。このようなまだ時間という感覚がきちんと普及していない時に、やれ時間通りに集まれ、きちんとルールを守れ、と口うるさく言う郡長が赴任してきた場合には、地元とその習慣の違いからぶつかるであろうことは容易に想像がつきます。しかもその相手が徴兵検査の際に、制度的な話で地域住民からすれば面倒臭いいちゃもんつけてきた相手であったとなると、さらに地域住民にとっては、より言うことを聞きたくなくなるでしょう。恐らくですが、深瀬和直は郡長として赴任してから、農業講習会などを行っても時間通りに人が集まらない、だとか、申請書などの事務書類の提出の期限を守れと言っても期限通りに出さない、などの苦情を言ったでしょう。そのため、さまざまな点で郡長と地域に衝突があったのではないかと考えられます。古くからの慣習の中で生活してきた地域住民に対して、その慣習を変えることを求めてくる存在である郡長というのは非常に煙たい存在で、地域住民からしてみれば、今まで通りに自由にさせて欲しいという感覚にとらわれてしまうでしょう。この近世的なものと近代的なものの葛藤が表面化したのが、郡長の排斥運動だったと言えるでしょう。そのため、当初は煙たかった郡長でしたが、段々とその熱意も理解出来るようになり、地域住民が時間や規則の厳守を守ることで、農業生産の増加や治水事業によって水害を未然に防ぐなどの利益を享受出来るようになり、郡長・深瀬和直はついには地域にとって必要な人物だと認められるようになったと考えても差支えがなのではないでしょうか。

 今回はどのように調査をして史料を活用したか、あるいは深瀬和直の来歴などのお話と、実際の論考で書いていない部分として、地域住民と郡長との葛藤から、近世的なものと近代的なものの相克を見出せるのではないか、というお話を書いてみました。少し実証性が薄い点もありますので、まだまだ後半の話は論考には出来ないとは思いますが、こういう小さな問題から大きな問題の糸口を見いだせる面白い内容だと思いますので、落穂ひろいとして記しておきたいと思います。


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