タロット占いと戦争 / 「5時から7時までのクレオ」
映画とは、観客に観てほしいシーンを選んで編集されている。だからスクリーンのなかで展開される物語を約100分観たとしても、冒頭からラストシーンまでに数日経っていることがほとんどだ。長いものであれば数年、あるいは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」のように登場人物の人生そのものを描く作品もある。では、ある人物の人生を90分そのまま映す(ように撮る)とどうなるか、という試みをやってのけたヌーヴェルヴァーグの作品が、アニエス・ヴァルダ監督の1962年の映画「5時から7時までのクレオ」だ。1961年6月21日の午後5時からの約2時間、主人公の歌手クレオをカメラが追いかけたような90分の作品である。こうした設定だけを考えると退屈な作品に思えるのだが、よく出来た映画だ。
本作はほとんどモノクロで編集されているのだが、冒頭にクレオがタロット占いをしてもらっているシーンだけがカラーで処理されている。
クレオは12番のタロット"吊された男"(The Hanged Man)を引き、次に13番のタロット"死神"(Death)を引く。占い師はクレオに、死神のカードは死そのものではなく人生に重大な変化があることを告げていると諭すのだが、病院の精密検査の結果が不安なクレオは、死が明示されてしまった、きっと検査の結果はガンに違いない、と落胆する。このカラーで編集されているシーンが本作の90分間を暗示している。
タロット占いの部屋をあとにしてから、クレオはずっと"私は死ぬんだわ"のような妄想にとらわれてしまうのだが、これは実存だとか哲学のような重苦しい死ではなく、ポップな死である。パリの街を歩き、ショッピングをしたり、カフェに立ち寄ったり、いつもと変わらぬような暮らしをしながら、検査結果に怯えているクレオは、戦場でドイツ軍の要塞に突撃しろなどと命じられているわけではない。あくまでも検査の結果を待つ身であり、暗い気分を象徴するような黒いドレスに着替えてからも、クレオは友人に会いに出かけていく。
不安に苛まれつつパリの街中を歩くクレオのシーンでは、多くのパリ市民がカメラに気付いて目線を寄越したり、演技をしているクレオを眺めたりしている。こうして第四の壁をあっさり破っていることは、同時期にパリで活躍していたジャン=リュック・ゴダール監督の映画と共通している。実際に、本作のなかでクレオが数分の"映画"を見つめるシーンがあるのだが、このなかにゴダール監督や女優のアンナ・カリーナがカメオ出演している。ヌーヴェルヴァーグという運動をみんなで楽しんでいたことがよく分かる。
モンソリ公園で落ち込むクレオは、口数の多いアントワーヌに出会う。アルジェリア戦争から一時帰国しているアントワーヌは、クレオに戦場での死の無意味さを語る。一緒に病院へ行き、ベンチで語り合っていると、クルマで通りがかったクレオの主治医が"検査結果は陽性だが、2ヶ月の放射線治療で治る"と告げて、走り去っていく。アントワーヌは後日また出征したくないと言い、クレオはもはや悲嘆などしておらず、アントワーヌを見つめる。
街中でアルジェリア戦争を報じるラジオの音声が挿入されていたように、つまり本作は、戦場で兵士が死ぬことの無意味を強調している映画だ。病気や事故ではなく、どこかの誰かの都合によって戦線へ行って死んでしまうということがあまりにもナンセンスだからこそ、どこの国でも戦没者を顕彰する記念碑がある。戦死が名誉なことだと本当に信じている人は平気で他人を殺す。戦死に意味があると信じたいのは生き残った人であり、当の兵士たちにしてみればたまったものではない。あの世へ行った時に、太平洋で死んだ先人たちに"あなたは英霊です"と言えば、きっとほとんどの返答は"なにが英霊だバカヤロウ、もっと生きたかった"に決まっている。本作の制作中も継続していたアルジェリア戦争は、公開の1ヶ月前に終戦し、アルジェリアは独立を果たした。アルジェリアの遺族たちは"あの人の死が礎になった"と信じていただろうが、本当に必要だったこととは、フランス政府が戦争を回避することだ。全ての戦争とは等しく外交の敗北である。これは日本人がよく承知しておかねばならないことだが、おそらく現在の日本人の大半はなぜ戦争に踏み切ったのか知らない、すなわち義務教育で教えられていないだろう。
戦場のシーンを一切使うことなく、"戦地での死"を考えさせる映画だ。アルジェリアでバカな戦争を止めろというメッセージが十分伝わってくる。しかし同時に、タロット占いが的中するように、クレオはこの2時間で人生が好転したように見える。前回の記事「捜索者」でも書いたことだが、語られていないこと、映されていないことをしっかり暗示する映画は出来が良い。
ヌーヴェルヴァーグのなかでも、ゴダール監督やトリュフォー監督たちと異なり、アニエス・ヴァルダ監督や「ラ・ジュテ」のクリス・マルケル監督は"左岸派"と呼ばれている。
左岸だかサガンだか知らないが、そんなジャンル分けに"意味がある"と信じている人たちは、おそらく文学や映画に向いていない。パリのような狭い街のなかでカイエ派と左岸派なんてことを気にするようだから、"ルイ・マル監督はヌーヴェルヴァーグなのか"などという、およそ意味のない問いが生まれてくるのである。だいたいのことに、意味なんかない、ということを知るのが知性だ。僕の映画評もまた、ただの冗談みたいなものである。