カフェインと最近のこと
カフェインのこと
ここ2、3週間くらいカフェイン断ちをしていたのだが、まあ疲れるわ頭痛くなるわ甘いものの摂取が増えるわで最悪だった。
でも、カフェインキメないとやってけないくらい自分の体力に見合わない生活をしていたことを理解した。そもそも持病があり、「無理をするな」「ストレスを溜めるな」と散々お医者さんに言われているのに。
ということで(?)今日は久々のカフェインをキメた。大好きなオーツミルクラテを飲んだらめちゃくちゃにガンギまった。超元気。エナドリもそうだけど、カフェインとりすぎは元気の前借りって本当だね!!
完全に断つと別のところに支障が出そうなので、しばらくは週2はカフェインOKにしようと思う。今までは週5でグランデサイズをがぶ飲みしていたんだけどさすがにこれが良くないことはわかっていた。でも飲まずに仕事やってらんなかった。コーヒー、自宅で豆から挽いて淹れるくらいには好きなので、完断ちはやめる!
最近、書いて発散したいことが色々あったのだけど、上手くまとまらず、noteのつぶやき機能も活用できず、消化不良でモヤモヤしてたので、とりあえず思いついたことを適当に書いて消化する。薬にも毒にもならない、ただの考えごとの排泄物。
最近のこと①
自分あるあるなのだけど、大切な人や同じような境遇の人が苦しんでいるのをみると、「あたしがあんたを苦しめてるやつぶっ倒してくるから、そこであったかくして待ってな」という気持ちになる。その人が幸せになって欲しいというのももちろん本当だけど、それに加えて過去の自分を救いに行きたいのだなということに気づいた。
最近のこと②
我慢は美徳じゃなくて加害への加担。
最近のこと③
私の普段の仕事は、忙しい時はトイレに行ったり水分補給もできないほど忙しい。でも、どんなに頑張っても、仕事の性質上誰の目にも止まらない。褒められるわけでもない。
数年間、そんな仕事に従事していた私だが、最近プロジェクトで成果物が世に放たれるという経験をした。「頑張ってるね」「いいね」と言われてすごく嬉しかった。
ただ、ほっとくとこれに味を占めて他人うけを狙い、その結果「自分とは?」みたいな終わりなき問答が始まるので、他人の評価じゃなくて自分の満足感にフォーカスするようにする。迎合しない。それは、自分も相手も幸せにしない。仕事なので相手の求めるものを創出する必要はあるけど、その範囲内で好き勝手する。
ピッタリ密着した阿吽の関係だけが良いものってわけじゃない。最寄りのスーパーで店員のおばちゃまが「今日も遅いわね、仕事忙しいの?これからごはん作るの大変ね〜」みたいに、うっすら関わってくれるのはすごくありがたいし生活を彩る一部だと思うし、ていうかこういうのこそ生活じゃん、と思う。見知らぬ人との一瞬の邂逅こそ心から楽しい。
同じものを見ても何も思わない人もいれば、はたまたあらゆることに思いを巡らせる人もいる。自分なりに色々思い巡らせる人のことを「繊細」というのだと思う。なので私は繊細だと思う。繊細ってストレス社会を生きていく上ではデメリットのように見えるけど、人生の幸福度っていう観点から見れば幸せのポテンシャルやばくない?と気づいた。もちろん、どっちがいいとか良し悪しはないけど。
最近のこと④
色々な価値観があって、色々な人がいるからこそ、無責任なこと(例えば「仕事辛いならやめちゃえば?」とか)や、縛るようなこと(「会社やめないほうがいいんじゃない?安定してるし」とか)は言いたくない。だけど絶対にやめなよってことはあるし(例えばDV彼氏と別れないとか)、でも大人になればなるほどそんなことすら「やめなよ」と言えない雰囲気になってくる。なんか寂しい。
人間と付き合うってことはどういうことなんだろうって最近たまに考える。よく「相手の面倒なところまで愛してこそだ」とかいうけどなんかしっくりこない。「死ぬまでの暇つぶしだ」も、うーん、違う。
仏教では、「全は一、一は全」みたいな言葉がいろんな言い回しで存在する。悟った人たちがどういう真意で言ったのかはわからないけど、海や山の自然も自分もキモ部長も全部繋がってるんだよ〜的な意味だと解釈した。出身中高が仏教系スクールで、毎日念仏を唱えて論語を読んでいたのもあり、こういう考え方は体に馴染んでる気がする。部長と繋がってるとか相当にキモいから具体的な想像はしたくないけど。
全てを受け入れるでもなく、全てを放棄するでもなく、執着なく飄々と生きている方を見ると、すげえな…と思わずにいられない。けど、そうなりたいかと言われると、私はまだ、もうちょっと人生のジェットコースターを楽しんでたい気がする。