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落葉集

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勉強して遊ぶのよりも、遊びに飽きて勉強でもしてみるの方が面白そうだ。

超越論的な図式の中で、どのように自己の生を表現するかということを考える時、ジャズは参考になるんだよな〜。

ライブやコンサートとは、一種のブレストなのだな。
でも、そう言ってしまうと、SNSもブレストだよな。

次元を下げていくというのが、本質を探究するということなのだろう。だとしたら、それは微分だ。
だが、本質と微分の手前、を思う。

作品としての芸術は、いや単純に、芸術作品は、やはり副次的なものだ。芸術家が作品を作る行為が1次的だ。0次的と言った方が良いか。それを点と見ればそうなる。
だが、その点自体が現れること、それはもはや次元的ではない。

プログラミングは箱庭療法のようなものとして使えるかもしれない。

予行。
私は、あることを順序立てて理解する際に、その前に予めその順序での思考を、私自身にも気付かれずに、既に行なっている。だから、私は同じことを2度繰り返している。

超広角レンズで、或いは360度カメラで、私の周りが全部見えている感じ。私だけが見えておらず。いや、私も見えはするのだが、他のものと同じように、一つの他のものとして見えている感じ。

音を観、光を聴くこと
心地良い物事は音として聞こえ、気味の悪いのは光として見える
それを逆転してみる
前者を光として観、後者を音として聴く
押し離すことと引き寄せること
吟味することと愛すること

祈りは、世界を開くための私独りからの一方向的な行いだ。誰か相手がいるのではない。そして、コミュニケーションよりも、私は祈りを好む。

物事を明晰判明に見る、というのは、客観的な観察でありながら、見たくない事、私の愛する人が苦しんでいて私は何もすることができない、といった事も見なければならないのだから、それは、倫理的な覚悟の必要な構えでもある。

デカルトの『方法序説』を高校生の時以来、数十年ぶりに読んで、これは、勉強の哲学だと思った。いや、明らかにそうしたことが書いてあるのだが、当時はそうは読めなかった。勉強のことが書いてあるのは分かっていたが、説教臭い本だと一蹴したと思う。今読むと、正に、方法、が書いてあるのが分かる。

世界を私事として掴むこと、それに入ること、

酒に酔って酒の蘊蓄を語るAIが出現したとしたら、相手として認めてやってもいいと思わなくもない。