何もしない日々は「そこに存在しているだけでよい」と思うための練習
意識的に休息をとっている。
特にこれといって、何もしない日を過ごしているのは久しぶりだ。
何もしないとは、本当に何もしないわけではない。料理や掃除をこなしたり、適当に運動もする。ここでいう何もしないは、仕事や勉学など、生産性のある行動をしないことを指す。
あえて何もしない日を作ったのには、精神的不調を感じたからなのもあるし、
自信がない人は、自分をケアするのが苦手
精神科医の著書の一説にこうあったのも「何もしない日」をつくる後押しになった。
自信のなさからケアをおこたる人間だと、自覚があった。それ以上に困ったのは、休息に対してネガティブな感情をいだくことだった。
私はフリーランスで、主な業務内容は文章を書くこと。
記事になるアイディアを練ったり、アイディアを「記事」という形にすること。頭の中に散っている文の切れっぱしを繋ぎあわせて、ツイッターに投稿すること。
フリーランスなのだから、働くタイミングも、休むタイミングも、自由に選べる。疲れたら休めばいいのにも関わらず、いつも忙しなく、なぜか休んではいけないような気がした。
仕事をやり遂げていない自分に、罪悪感がある。毎日文章を書かないと鈍ってしまうのではないか、という焦りもある。
何もアイディアを考えられていないと、不思議と不安になる。誰かと競争しているわけでもないのに、追い抜かれそうな焦りさえも。
私の中で休息とは「やってはいけないもの」という、ネガティブな行為になっていた。だから、常に忙しくしていたい。いや、忙しくしていた方が罪悪感も焦りもないから「安心」だった。
そう感じる原因はつかんでいる。
私の根底には「何もしていない私は価値がない」という気持ちがあるからだ。
生産性のある行動をすることで「私には生み出せる人間だ」と、一種の人間的価値を感じられる。つまり「何もできていない私には価値がない」という気持ちを打ち消すことができるから、行動を起こしたくなる。
その反面、休息をとると、価値を感じられる機会がなくなり、罪悪感や不安や焦りにおそわれる。だから何かしないとならない、ということなのだ。
本当は何もしてもしなくても、人間の価値自体は変わらないはずなのに「私はなにかを生み出していないと価値がない」という、不思議な条件がくっついていた。
チリが積もったのか、つい数日前から異変が起きた。
私には活動理念がある。
昔の私のように、自分を嫌い、容姿のコンプレックスに苦しみ、生きづらさを感じている女性に生きやすさのヒントを与えたい。誰かに与えることではじめて、私が苦しんできた経験に意味を見出せるからである。
その理念さえ放棄して、無気力になり、すべてを投げ出したくなってしまったのだ。
「生きやすさのヒントを与えたい」と偉そうに掲げておきながら、私自身が生きづらさの中にいるではないか。与えられるようになるには、与える本人が健康でいなければ与えられない。
だから、思い切って何もしない、何も考えない日々を過ごしている。
自分の中に溜まったネガティブな感情や疲れがなくなれば、ふたたび与えられる日がくるはず。それに、何もしない自分にも価値を感じられるようになるには、その状況に「慣れる」からはじめる必要がある気もする。
何もしない日々を過ごしている自分を受け入れ、誰からもよい評価をされなくても、自分でよい評価をくださなくても「そこに存在しているだけでよい」と思えるように、しばらくは何もせず、何も考えずに過ごそうと思う。
と言いつつ、この文章は書いてしまったけれど。
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