病的な承認欲求社会は、民主主義崩壊の構造と同根 西洋個人主義由来の病理だ 音を立てて崩れてゆく近代
整形依存とでも言うのだろうか、ルッキズムに命をかけて、数百万円、1千万円以上費やす女性の異常な姿がネットに氾濫している。それは、もはやこの記事にもあるように、整形外科医でさえも危惧する状況になっており、病的というよりも完全に精神疾患の様相を呈している。ある種の強迫神経症なんだろう。
強迫神経症と言えば、この整形だけではない。「承認欲求」という言葉は、もうすっかりおなじみの言葉になったが、SNSにおける「イイネ」依存も、最近話題のYouTubeやTiktokにおける奇行、愚行の露出も、日本人丸ごとが同根の精神病理に陥っていると言っても過言ではない。
「私はここにいる」「私を見て」「私の声を聞いて」
そんな言葉が日本の空に溢れかえっている。
どうしてこんなことになってしまったのだろう?
これは、もちろん直接的には、ネットやスマホが作り出した現象だ。
ただ、その背景というか、根本の原因は、第二次大戦後に普及した「個人主義」だと思う。
別に難しい話をするつもりはない。
たとえば、中学や、高校での進路指導を思い出してほしい。
進路LHRや、面談で、教師はあなたに「進路実現」とか「自己実現」とか言ってなかっただろうか? 「将来どんなことがしたい?」「どんな人になりたい?」と何度となく聞かれたのではないか?
あるいは、保健の授業で「自我の確立」とか「アイデンティティ(自己同一性)の確立」という言葉を習わなかっただろうか? またあるいは現代文の教科書に書いてあった「近代的自我」という言葉を思い出してほしい。
これらは全て西欧型の「個人主義」の思想に基づいている。
これが個人主義思想における「正しい生き方」であり、「正解」なのだ。
ということなのだが、「あなたは誰?」「何者?」「どんな人になるの?なりたいの?」と問われて、困惑した人も多いだろう?
そりゃそうだ。これらの問いかけは、畢竟「生まれた意味」「生きている意味」「人生とは何か?」というとてもやっかいでめんどくさい哲学的命題であるからして、軽々に答えられるもんじゃない。
ていうか、そんなことを考える人は相当に知性の高い一握りの人たちだろうし、そんなこと1㎜も考えなくたって全然生きられるし、全然死んで行ける。
だから、私が高3生の担任をした時に、できるだけ哲学っぽくならないように
という答えしか返ってこなかったことを、そんなに非難するつもりはない。
ただねぇ、それでも学校というところ、あるいは社会というところが、近代主義を支えている啓蒙思想(「個人主義」もその主要なひとつ)に基づいて成り立っているものだから、そういう「無目的な生き方」とか「なんとなく生きる」というのは、不正解とは言わないまでも、あまり褒められることがない。
そのことは、やっぱり生徒さんの方も敏感に感じ取ってる(洗脳されてる?)みたいで、「目的なんかねぇよ! 生きてるから生きてるんだよ!」と逆ギレする人は少なくて、「生きる意味を探さなくっちゃ」とか「自分らしさって何だろう?」と真面目に考えちゃう人が多いみたいで、いわゆる「自分探し」の旅に出かける人が現れたり、「それはいいところに気がつきましたね。一緒に考えてあげましょう」と甘い言葉をかけて来る「自己啓発セミナー」みたいなのが大流行したし、また最近もその手の「自己啓発本」が売れてるみたい。
さらに、もっと手っ取り早く「あなたが生まれて来た意味はこれです!」と正解を教えてくれる新興宗教が、これまた跋扈したりしてるわけでした。
また、その一方で「そんなにがんばらなくていいから。あなたはそこにいるだけで意味があるんだから」とやさしくささやく「ありのまま」思想なんかもあったりして、誠にややこしい。
話が無茶苦茶飛んでしまって、回収困難になってるけど、
要するにそういう「自分らしさ」や「個性」を求める強迫観念みたいなのがベースにあって、それが数値化されて極端な形で現れてるのが「承認欲求」なのだ、と言いたいわけです。
先に言ったように、この「私は何者か」「何のために生きているのか」というのは、ある種の人々にとっては誠に有意義な哲学的な問題なのだけけれど、大多数の人は、そんな哲学的思考なんかするわけがない。
であるからして、その大多数の人は、その答えを「イイネ」の数とか「バズる」という数値に求めちゃうわけです。
要するに
という仕組みですね。
これをちょっともっともらしく言うと、
ということなのでした。
おそろしく長くなっちゃったので、強引にまとめちゃいます。
それで、最近よく言われている「民主主義オワコン説」とか「賞味期限切れ説」とかも、実は問題の根っこはおんなじで、この「個人主義」と「民主主義」というのが近代主義(モダニズム)の2本の屋台骨なわけで、それが両方ともぐらついてきちゃってるという話。
つまり、「民主主義というのは、自立した個人が自由意志に基づいて政治を決定するシステム」なわけで、この「自立した個人」という前提が「実はフィクションじゃないの?」という状況にあるわけだから、必然的に「民主主義」も砂上の楼閣になっちゃうわけで、近年のポピュリズムとかはその証左なんじゃないかしらん?ということになりつつあるわけです。
つまり、近代というシステムそのものが壮大なフェイクニュース(というか「幻想」)だったのでは? という疑いが濃厚になりつつある今日この頃なのでした。
「それを言っちゃあおしめーよ」なんですけどね。