青春の後ろ姿#71 〜20代は、清志郎と、バイクと、文学以外に何もありませんでした〜本の間に挟まっていたもの
この毛なんですけど、 #57で紹介した『王朝恋詞の研究』の間に挟まっているのを見つけました。
泣けて仕方ありませんでした。
この白い毛は、たぶん、ぷりんのものだからです。
ぷりんは私が26歳のころから44歳まで18年間一緒に暮らしたネコです。今、こうして思い出しても涙があふれてきます。以前、ぷりんについて書いた雑文があるので、長いけど引用しておきます。よかったら読んでください。
(以下引用)
for My Sweet Little Baby
もう18年も一緒に暮らしてきた。 淡い緑色の眼をした、雑種のメスネコだった。
1 出逢い
物心ついたころから犬や猫や、猿なんかも飼ったりしたこともあって、これまで生きてきたなかで、動物を飼っていなかった期間は沖縄に住んでいた2年半と、上京してすぐの4年ぐらいだった。
当時、僕はまだ26才だった。
どうしても我慢できなくなって、犬猫の里親を紹介している動物病院に連絡を取った。折り返しの返事で、何日から何日までの間の午後に、武蔵小杉だったか武蔵新城だったか武蔵小山だったかの商店街の、なんとかというパチンコ屋の景品交換所に行ってくれと言われた。
ケージを買って、当日は車でパチンコ屋を目指した。道すがら、ネコは一度に何匹も産むからとびきりかわいいのをもらおうとか、オスの方が断然楽だからいざとなったらかわいさより性別優先だなとか、3ヶ月って言ってたからトイレは大丈夫だろうとか、次から次にいろんなことが頭の中を巡っていた。
商店街近くの駐車場に車を止めて景品交換所に行くと、交換所のおばちゃんが「ああ、ネコちゃんの人ね」と言って、横のドアを開けて段ボール箱を差し出した。ミャアミャアと中から弱々しい声が聞こえていた。その声を聞いて、嬉しさが一気に増して急いで開けた。
ところが中をのぞくと、一匹しかいなかった。唖然としておばちゃんを見ると「他はね、もうみんなもらわれちゃって」と気まずそうに言った。さらに「この子、メスなのよね」とつけ加えた。
──売れ残り。
そんな言葉が頭に浮かんだ。黙ってしまった僕を見透かしたかのように、おばちゃんが「1匹だけ、ねえ、残っちゃって、かわいそうに。ねえ」とたたみかけてきた。
思わず「いただきます」と答えてしまった。
おばちゃんの顔がぱっと明るくなって「エサ残ったの、全部あげるね。この子ね、ツナの缶詰が大好物だから」と言うと、ネコの缶詰のパックを3本くれた。
1匹だけ売れ残ったそのネコを抱きかかえると、両手におさまるほど小さくて柔らかくて、華奢だった。つぶしてしまいそうな気がした。
左の掌に載せてみた。掌が温かくなった。生きてるな、と思った。
ネコは、僕をのぞき込むようにぶるぶる震えながら少し首をかしげて、ミャアとひと声ないた。
当時、僕の住んでいたアパートは、軽く築30年は超えていて、玄関の化粧板は縦にべろべろにはがれ風に揺られていて、柱はゆがんで雨戸も閉まらず、窓も斜めになってきちんと閉まらず、すきま風を段ボールでふさがなければならないような部屋だった。台所の床は腐っていてべこべこになっていて踏み込んではならない箇所があった。
部屋は1階で、床が抜け落ちても迷惑はかけないからいいかと思っていたが、その2階には若夫婦が住んでいて、歩くたびにミシミシと天井から音がしていた。
川崎の鷺沼、6畳4畳半で台所とお風呂が別々でついていて、しかも雑草だらけの広い庭付き。バブルがはじけたとマスコミは騒いでいたが、まだまだ生活するには何かと高くついていた時期に、家賃は駐車場代込みで5万2千円の格安で、「鷺沼」という地名も気に入っていた。
「第二〇〇荘」というアパートだった。もちろんペット禁止だったが、同じ敷地に住む大家さんは、家賃についてもネコについてもずいぶん寛容にしてくれていた。
もらったときにピンク色したノミ取り首輪をつけていたので「モモ」と呼んでいたが、しっくり来ず、すぐに「ぷー太郎」と名づけ直し、しばらくの間は「ぷー」と呼んでいた。けれどメスだし、いくらなんでも「太郎」は無いだろと思い、「ぷりん」とあらためて名づけた。我ながらなかなかいい名前だと思った。
2 野生の王国
ぷりんは、うちに来た当初、あれほどかよわかったのが、いつの間にか逞しく成長していき、いつも開けっ放しのトイレの小窓から外へと出かけ、狩りしてきてはいろんな獲物を持ち帰って部屋の中で食べていた。
僕が大学院や講師のバイトから戻るたびに、セミ、モグラ、スズメ、イモリやトカゲといった生き物の痕跡が転がっていた。なかでもスズメとトカゲが大好きで、庭にスズメがいるのを見つけると、高い変な声で、ぐるぐるーという声を出しながら突撃態勢に入った。
大体のことは気にならなかった僕も、二度ほど本当に閉口したことがある。
一度目はネズミを捕まえて部屋に戻ってきたことだ。それまでも同じことはあったが、その時は悪いことに、瀕死のネズミが部屋の中で逃げてしまったのだ。逃げたネズミは半開きの押し入れに逃げ込み、そこから更に台所の流しの裏に駆け込んだ。どうしても捕まえることができず、しばらく眠れぬ夜が続いた。結局薬屋で超強力粘着シートのネズミ捕りを買って来て、バイトに出るとき部屋の真ん中に仕掛けておいた。
バイトから戻ってみたら、まんまとネズミは捕まっていた。ただ、そのネズミの隣にぷりんも捕まっていて、ニャーともギャーともつかない声でないていた。引き剥がそうとしたが、全く剥がせない。スフィンクスのような姿勢で張り付いていたが、暴れれば暴れるほどくっついている面積が広がっていった。仕方なく、くっついた毛をはさみで切りながら引き剥がした。
二度目はハツカネズミを捕食したことだ。いつもの獲物たちではなく、飼い込まれた毛並みをした、かわいらしいハツカネズミの死骸を見たときには何となくイヤな予感がした。そのほんの翌日ぐらいに、大家さんの家に、たまった家賃と菓子折を持って行ったとき、広い玄関の片隅に、ハツカネズミ用のかごが洗われて干されてあるのを見た。予感は的中していた。
家賃を受け取った大家さんは、菓子折は「いいのよ」と言って受け取らず、黙ってハツカネズミのかごに目をやった。僕が凍りついたまま突っ立っていると、
「あんた……」
と言いかけ、ニカッと笑って、
「それ、もらっとくわ」
と言って僕の手からもぎ取るように菓子折を取った。
「家賃、また半年後でもいいから」
笑ってそういいながら家の中に入っていった。
一年後にこのアパートは、老朽化に伴い取り壊されることになり、僕は不動産屋さんから引っ越し料や立ち退き料をもらうことになる。けが人こそ出なかったが、隣棟の第一鷺沼荘の方で二階の床が抜け落ちるということが起き、全棟住むのに重大な危険があるからという理由だった。そのとき追い出しに来た不動産屋さんから聞いたのだが、大家さんは、時々やって来るぷりんのことを「ちび」と呼んで、半分飼っているつもりでいたそうだ。
僕の部屋に遊びに来た友人達は口をそろえて「野生の王国」と呼んでいた。それでもやたら毛づくろいだけはきちんとしていて、女性としてのたしなみは欠かさないネコだった。
僕は、ネコはネコ以上でもネコ以下でもないと思っている。そのことにやたらとこだわっていて、ヒトと同じものを食べさせたりしなかったし、「家族」と言われたりするのもいやだった。かといって「ペット」という言葉にも抵抗があった。
ネコを飼っている、それでいいと思っていた。そのくせ、寝るときはいつも一緒だった。
子ネコのうちは、ぶるぶる震えるのを抱きかかえて無理矢理布団にいれて、朝になると僕につぶされかかっていたりしたが、大人になるにしたがって逆に布団を取るようになった。だいぶ蹴飛ばしたり押しのけたりしたが、そのころにはすっかり一緒に寝るようになっていた。わきの間や足の間で寝ることが多かった。
一度だけ、ネコもヒトの気持ちや状況がわかるに違いないと心の底から思うことがあった。
独り暮しは気楽だし何をしても自由だが、例えば、いやなことがあって、家出してやる、と思ったとしても、当然だれも家出したことに気づいてくれない。
また、病気で寝込んだりするとかなりやっかいで、病院に行こうにも行けないし、薬局に薬を買いに行くこともできない。お腹が減ってもコンビニに弁当を買いに行くすることもできない。けっこうリアルにこのまま死ぬんじゃないかとか孤独死とか思ってしまう。
それは、そんな独り暮しをしていて風邪をこじらせて寝込んでしまったときのことだ。
三日間ぐらいだろうか、熱にうなされ何も食べられない日が続いた。ひたすら寝続け、たまに目が覚めたら這って台所まで行き、水を飲んですぐにまた寝た。その数日間は、世界で一番遠い所が台所だった。
ようやく熱が下がって回復の兆しが出始めた、ある朝のことだ。
目が覚めて、ずいぶん楽になった感じがして、身体を万年床から起こしてみた。
ぷりんはどこにもいなくて、部屋は妙に静かだった。辺りをなんとなく見回すと、枕もとのあちこちに、なにか点々と落ちているのに気がついた。
よく見てみると、それらは半分干からびたトカゲの死骸だった。
六、七匹もあったろうか、布団の中や周りも確かめたが、全て枕もとに転がっていた。なんなんだと思って、はっきりしない頭でぼんやりと考えていると、いつものトイレの小窓から帰ってくる音がした。そちらの方に目をやると、トカゲをくわえたぷりんが入ってきて、僕と目があった。しばらくお互いに身じろぎもせず見合っていたが、やがてぷりんはこちらに寄ってきて、枕もとにトカゲを置くと、布団の足もとの方に移動して、おもむろに毛づくろいを始めた。
看病しているつもりだったのか、その数日間、ぷりんは大好物のトカゲを病気の僕にプレゼントし続けていたのだった。
勝手気儘に狩りをし、食べて寝て、甘えたり気のないそぶりをしたり、けれど僕がどんなに独りきりだったときも、いつもそばにいた。
そのぷりんが、日を追って弱り始めた。気がつけば20年近く経っていた。若造だった僕もいいおじさんになっていた。
清志郎も歌っている通り、お別れは突然やってくるのさ。
3 スローバラード
ぷりんは、足も弱くなり、階段を上り下りできなくなった。時々嘔吐もするようになった。寝ていることが極端に多くなって、たまに開く瞳にも、白い濁りが混じり始めていた。あんなに毛づくろいにうるさかったのに、全然しなくなって、ふかふかしていた毛もぺたっと張りついた感じになっていった。
それでも僕は安心していた。ずっと一緒に暮らしてきたんだから、これからもずっと続くんだと思えてならず、平気だった。
5月に入って、忌野清志郎が亡くなった。僕の全てだったバンドマンだった。深い喪失感に呑み込まれた。幾晩も幾晩も涙が止まらない夜が続いた。
その十日後、上京して以来僕を厳しく指導し、今の僕にしてくれた大学の恩師が亡くなった。
立て続けに失われ損なわれたこの感覚は、そのまま傷になりそうだった。
そんなさなか、ぷりんは部屋の片隅で丸くなったまま、じっと動かなくなった。
水をほんの少し飲むぐらいで、何も食べられなくなった。
かかりつけの動物病院に連れて行くと、病院の先生は体温を測り、採血した後、診るから待合室に戻るようにと言った。
誰が診ても、と思った。
誰が診てもぷりんは、これは、しかたがないことなんだ、自然なことなんだ。待つあいだずっと、繰り返し自分に言い聞かせた。
しばらくして呼ばれた。
診察室に入ると、先生に、内臓がほとんど働いていません、衰弱も激しいからこれ以上の投薬や注射等はショックを起こすかもしれませんが、栄養は摂らせないといけません、点滴を打つ必要がありますが、いいですか、と尋ねられた。
何を言われているかよくわからないまま「はい」と答えると、先生は、何度か小さくうなずいたが、その場から動こうとしなかった。そして、
「本当に、いいですか」
と、再び聞かれて、「え、ああ、はい」と答えながらうなずいた。
それでも先生はまだためらうようにしていた。そのままぼんやり立っていると、先生がとてもつらそうに言った。
「ぷりんちゃんは、とても弱っているので、点滴のショックで、その……」
そう言われて、やっとわかった。
「死んじゃうかもしれないんですか」
独り言みたいにそう聞くと、先生は黙ってうなずいた。診察台の上で、身体を丸めることもできず、ただ横になっているぷりんを見た。
いつのまにかすっかり痩せていた。小さく呼吸しているのだけがわかった。「ぷりん」と呼ぶと泣きそうだったから、黙って耳の裏を掻いてやった。耳の裏を掻かれるのをぷりんは好いていた。
「お願いします」と答えた。
先生は小さくため息をもらした。
「わかりました。なるべくいろんなショックがないように、ゆっくり点滴するので明日までお預かりしますが、もしかするとうまくいかないかもしれません」
「途中で死ぬかもしれないっていうことですか」
「そういうことです」
4 ヒッピーに捧ぐ
「野生の王国」で、ぷりんと僕は一緒に暮らしてきた。
僕は25才から30代、そして気がつけば40を越えていた。一方ぷりんはといえば、生まれてすぐの頃に僕との暮らしが始まって、今ではおばあちゃんと言われる年をはるかに越えていた。
20代半ばからの、僕がやってきた良いことも悪いことも、僕の全部をぷりんはすぐそばで見つづけてきた。
一人で部屋でテレビを見ながら笑い転げていたときも、
コンビニ弁当を食べながら泣いていたときも、
夢中でゲームをしていたときも、
電話で誰かをののし罵っていたときも、
嘘をついたときも、
誰かに優しくしたりされたりしていたときも、
全部をじっと見てきた。
そこには、人間の小さな善悪の基準や、面倒なだけの自己顕示欲や、惚れた腫れたのエゴや、ゴミのような安っぽいココロみたいなものをはるかに越えた、ぷりんだけの基準があったんだと思う。
だからぷりんとは、やっぱりこれからもずっと続くような気がしていた。
翌日、ぷりんを迎えに行くと、先生が
「がんばりましたよ」
と言って、奥からぷりんを抱えてきた。
「ほんとうに、よくがんばりましたよ」
「ありがとうございます」
「ちょっと、考えられないことだと思いますよ」
先生の、昨日のため息の理由だった。
すっかり軽くなった身体を抱きかかえながら、本当によくがんばったと思った。たぶんぷりんはここでは死なないと思ったんだろう、迎えに来るまで、ちゃんと生きていようと思ったんだろう、と、ヒトじゃないのに、まるでヒトのように思った。
ぷりんの右の前脚に、もこもこと膨らんだ包帯が巻かれてあった。
「容態としては、もう目も見えないはずです。耳も聞こえないはずです。今後も継続的に点滴が必要なので、針は刺したままにしていますが……」
先生は迷っているような口調で、僕に返事を促した。
ぷりんを見た。
全く動かず、どこで呼吸しているのかさえわからなかった。あばらが浮き出たあたりをよく見たが、目をこらしても上下しているふうではなかった。
今度は口を見たが、半開きのまま乾いていた。目も閉じたままだった。それでも生きていると思えたのは、身体を包んでいるタオル越しに、ぷりんの体温が伝わっていたからだった。それだけが唯一、ぷりんが生きていることを僕に実感させた。
ぷりんの命を永らえさせることは、と思った。それは、だれの為なんだろうか、だれの幸せの為なんだろうか、ぷりんには生きる意志があって、こんなふうにまでなりながらも、わずかに呼吸をつないでいる、ただ、それはぷりんの意志であって、点滴で栄養を摂らせ続けることとは全く別の問題だ、でっかい針を刺したまま、摂れない栄養を流し込んで、それはだれの為だ。だれが幸せになる。だれが救われる。
ほんの刹那のことだったかもしれない。
あるいは長い間だったかもしれない。
答えの出ない、くだらないことに思いをめぐらせた。
それから、これまでのぷりんとのどうでもいいような出来事や風景が、次々に目の前を駆け抜けていった。そこには、どうしようもない毎日を送っている若い頃の自分もいた。いっぺんに湧き出てきた涙で、視ている幻もひどくにじんだ。
もう一度ぷりんをよく見た。
このネコはね先生、最高にかわいいネコだったんですよ、小さい頃なんか掌におさまって、ぶるぶる震えて、ちょっと首をこうかし傾げてね、小さな声でなくんですよ、大人になってからは狩りばっかりして、野生そのままで、しなやかで、精悍な感じで、ね、でもあれです、毛づくろいは欠かさなくて、いつもすっごくきれいな毛並みしてたんです、やっぱりきれいじゃないとね、まあちょっとよそにはいないかな、こんなにイカしたネコは……。
ぼたぼたと鼻水と涙がぷりんの顔や身体に落ちた。どこかの国のおとぎ話だと、このあと目覚めるはずだと、ばかなことを思って、ぷりんの顔を何度か撫でたが、僕の鼻水が糸を引くだけで、奇跡が起こるはずもなかった。
──先生、針はもう取ってやってください。
にじんだ光景の向う側で、先生が、大きく、そして深く、うなづいた。
その翌日のことだった。
あいかわらず呼吸しているかどうかもわからなかった。耳も聞こえないはずだが、
ぷりん
と呼ぶと、わずかにしっぽを動かして、白くなった目を細めに開けた。そうして、声も出ないのに、あくびをするみたいに何かを言おうとするみたいに、大きく口を開けた。
ぷりんは、胸に抱かれて死んだ。僕が帰ってくるまで待って、だれかを呼ぶように、僕に甘えるように、口をもう一度開けて、最後に気持ちよさそうに、大きく伸びをした。
ぷりんの身体が冷たくなっていっても抱いていた。僕の体温がぷりんに移ればいいと思った。
ぷりん、
おまえのご自慢の翡翠色した目も、
ごきげんな時のなき声も、
どこかにいってしまったね。
(引用ここまで)