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【読書記録】『静かに生きて考える』
『静かに生きて考える』を読みました。
この感想は2回目です。前回のはこちら。
*特につながりはありません。
投稿してから3日しか経っていない。けれども、メモしたのがだいぶ昔なのでずいぶん経ったように感じます。
*
あるテレビ局では、出演料が過去の出演回数によって決まるルールになっている。また、ある出版社では、イラストの料金をイラストレータの学歴によって決めている。
テレビの話は聞いたことがある。イラストレータの学歴に何の意味があるのかサッパリ分からない。
判断や方法などについて、他者の意見や経験などを参考にすることが多い。だが、ちょっと考えればわかることだが、条件が違いすぎる。なんとなく、成功した人の方法を採用すれば、自分も成功できるような気になるけれど、自分はそもそも成功する人かどうか、という点で疑問を持った方が良いだろう。
条件が違いすぎる、というのはとても納得。人にアドバイスを求めるときはどうしようもない場合や、判断に迷う場合と決めている。何かしら手を打って、それでもダメで、何も思いつかない時に人の意見を聞くようにしている。
自己啓発本はこれの最たる例だと思う。自分もそうだが、「ここは自分とは違う」「こんなのできるわけがない」ということを理由に諦める。「こんなのできるわけがない」はいまだに思うことがあるが、「ここは自分とは違う」は当たり前のことだと認識を変えた。
「自分の性格にあった自己啓発本なんか見つかる訳がない」と悟った。むしろ、自分がやっていることの延長線上で「できることはないか?」「参考になることはないか?」と考えながら読むようになった。
自己啓発本に書いてあることを0→1で取り入れるのではなく、1→2と一歩ずつ進めるのが大切なんじゃないかと考えるようになった。
しかし、「自分が成功する人間かどうか」と疑うのは大変だ。
そう思いながら、何かを続けることは辛い。常に「時間を無駄にするかもしれない」と、ビクビクしながら前を向く。サンクコストバイアスがかかっているかもしれないと思いながら続ける。私なら、絶対にどこかで心が折れる。
考え出すと、だんだんと道理が見えてきて、真理のようなものへ近づく気がするけれど、それは単に、自分だけの解釈を求めているだけのことで、真理と呼べるような代物ではないはず。そして、謎が謎を呼ぶことになるから、考えるほど、解釈が深まるほど、もっとわからなくなってくる。
「哲学は答えを与えてくれるものではない、それっぽいものを与えてくれるだけ」という名言のようなことを思い出した。リソースは忘れた。
「考えていると真理のようなものが見える」。この考えついた真理が、ありきたりなことだったりする。「自分だけの解釈を求めているだけ」とあるが、まさにそのとおり。
ありきたりな結論だったとしても、頭ごなしに言われるのと、自分なりの解釈でたどり着いたのだったら、間違いなく後者の方が受け入れられる。たとえどれだけ時間がかかったとしても。
自分が好きなようにできない、と感じている人たちは、まるで自分の人生をコンテストに出品して、周囲から審査を受けるような具合に、日々を捉えているみたいだ。みんなに認めてもらわないといけない。周囲から褒められないと意味がない。大勢が賛同してくれないとやる気にならない。そんなコンテストを自分で妄想している。自分がそのコンテストの主催者なのに。
よく感じること。自分が好きにやって、それを周りが認めてくれる。そうすることで安心する、自分の土台を作れる。そう考えてしまう。
それがなぜなのかは分からない。
ここ数年、承認欲求について本を読むと同じようなことが書いてある。
少し考えてみると、「自分が好きなようにできない」の中身には、「好きなようにやっている自分を認めてくれる他者の存在」も入っているのかもしない。これが満たされないから、「自分か好きにできない」と感じるのでは?
一人でいると、感情の起伏が大きくなるだろう。他者と接するときには、きっと誰でも我慢をして、感情を押し殺しているはず。そんな時間ばかりだと、だんだん感情が鈍くなるのでは?
一人なら、自分に正直でいられるし、自分がどう感じるかを見ることで、人間というものの綺麗なところも汚いところも、一番正確に観察でき、人間が理解できるだろう。この理解が、自分以外に対しても役に立つ。
振り返ってみれば、1人のときのほうがイライラをあらわにしていると思う。
イライラして何かに当たるときがあっても、落ち着いたときのことを考えて物を壊したり投げたりはしない。机や太ももを叩いたりしている。
これも人前ではしないことだ。
ありきたりな話だが、ブラックな会社に勤めていると精神が死んでくる。感情をあらわにしても何も変わらない。むしろマイナスになる。ならばじっと黙っていよう。
こういった会社は長時間労働が当たり前なので、感情を表に出す機会はおのずと減ってくる。
そうして、うつ病になる。自分が何をしていたら楽しいのかすらも分からなくなり、自分ってなんなんだろう?って思ったりする。
こうやって考えながら書いてみると、感情をあらわにすることは大切に感じる。ただ、その場所(時間)が限られているのが今の問題かもしれない。