人生の巡礼
『夏のピルグリム』を読みました。
完全に、表紙に惹かれました。本業界全体でアニメ調のカバーが増えている印象があります。ちゃっかり私も乗せられました。新海誠風な作画が好きかもしれません。
タイトルにあるピルグリムとは、巡礼という意味があるそうです。つまり、タイトルは、夏の巡礼、という意味。
主人公の夏子は中学2年生。妹のチイちゃんと一緒にヴァーチャルアイドルの羽猫を推している。唯一の友達のマチとライブに行き、推しの引退を知る。ネットの羽猫の目撃情報をもとに宮崎への巡礼の旅へ出る。
物語前半には叙述トリック(おそらく)が使われている。最初は「?」が浮かぶが、だんだんと「あー、そういうことか」と分かってくる。
家にも学校にも居場所のない夏子が友達のマチと家出するわけだが、夏子とマチは対照的に書かれている。家庭環境の差や、将来の夢、自分の軸。
いわゆるパワーカップルの元で育った夏子は、親に「勉強しろ」と言われたり、「スマホは1日30分まで」と制約が厳しい。何事にも親へ交渉し、了承を得なければならない。
逆に、マチの親は町工場の社長の父と専業主婦(?)。親の稼ぎがそんなにあるわけではないことをマチ自身が知っている。ライブに行くことも報告で済み、髪の毛の一部を金髪に染めても特段怒られない。
夏子の将来の夢は、当たり障りのない「公務員」としたのに対して、マチは、「腹いっぱいハーゲンダッツを食べる」と書いている。
また、私立中学に進学した理由も、「親に進められたから」という夏子に対して、「なんか道が見えた」と根拠のない自信をマチは挙げている。高校受験をしなくていいとか、設備が良かったと挙げてはいるものの、夏子からしたらキラキラしたものに見えるだろう。
そんな2人が同じアイドルを推しているという点では一致している。
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物語の全体を通して見れば、夏子がマチの手を借りながらも、独り立ちするように見える。
というのも、ライブへ行くのも、家出を提案するのも、家出先でご飯を買ってくるのも、宿を探すのも、全てマチから行動している。
途中から2人は別行動になるのだが、そこからは夏子が独り立ちしようとしている。
この先で、記憶に残ったシーンが2つある。
1つ目は、路銀を稼ぐために屋台で働くことになり、そこのシングルマザーの店主との会話。
中学生から大人を見ると、なんか輝かしく見えるけれど、全くそうではない。こればかりは歳を取ってみないと分からないことだと思う。そんなことから、これから歳を取っていっても、いつまでも自分って変わらないんだろうな、って今は思ってる。
「会社の先輩が未来の自分」というのは、就活のときに聞いたことがある。読んでいて「そういえばそんなこと聞いたな」と思い出した。
今、考えてみると、会社の枠を飛び越えて色々な所で活躍している人が多い会社だと、そんなこともないのかなって。
2つ目は、夏子のおばあちゃんとの会話シーン。
土器探しは、おばあちゃんに羽猫くん探しを手伝ってもらうために夏子が条件として出されたこと。
振り返ってみれば、私自身、何かを達成するよりも、何かを追いかけている最中の方が楽しかったりする。
ギャンブルをしてお金を得るのか、ただお金を得るのか。実は前者の方が楽しかったりする。明日から一文無しになるのか、大金を得るのか。そのスリルを味わいながら大金を得る、そのストーリーが大切だったりする。
『暇と退屈の倫理学』でも、獲物が欲しいのではなく、獲物を追いかけたいと書いている。うさぎが欲しいのではなく、うさぎを追いかけたいのだと。
『HUNTER×HUNTER』の主人公の父、ジン・フリークスは、「大切なものは、ほしいものより先に来た」と言っている。遺跡調査で仲間と王家の墓を発見したことよりも、遺跡調査をするための準備を、仲間と紆余曲折しながらして、墓に辿り着き顔を合わせた瞬間だったと言っている。
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全体をみれば、夏子の独り立ちというよりも、家出を通して、自分の生活環境の良さ、親のありがたみを知ることかもしれない。
また、これまでの人生の振り返りをしつつ、これからの人生をどう歩んでいけばいいのか、それを知るための家出とも言える。