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読むページ数が増えていく『群像』

図書館で借りているので、どうしても読むのが遅くなる文芸誌。

最新号は貸出不可で、直近の号はたいてい貸出中になっている。そんなわけで、2ヵ月遅れで話題に乗っかる。特に『文藝』は季刊誌で、読むのがもっと遅れる。ペラペラめくって読みたいものがあればその場で読むこともあるが、後回しにしがちだ。

9月号からの新連載、全卓樹『わたしたちの世界の数理』、竹田ダニエル『リアルなインターネット』、三宅香帆『夫婦はどこへ?』の3作が、全て面白い。これまで読んでいた連載が終わって読むものが減っていくな~と思っていた矢先、また読むものが増えた。嬉しいような悲しいような。

この『群像』という雑誌。めちゃくちゃ厚い。9月号は500ページある。しかも他の雑誌とは違い、カラーページは目次しかない。99%がモノクロで構成されている。ページの肌触りや作りが変わっているわけでもなく、淡々とただ作品が続いていく。目次に書いてある? のか分からない見開きのみのエッセイも読みごたえがある。このエッセイは見つけた時に読むか、しるしをつけておかないと読み忘れることが多い。

自分が満足するために、読んで気になったものを書き残しておく。


全卓樹『わたしたちの世界の数理』

社会物理学という、社会科学の分野を数学的に考える学問を扱った連載。権力や支配、多数派の形成方法などが学問分野にあるらしい。

今回は支配構造について書かれていた。食物連鎖のような、「捕食者ー被捕者」の数が増減を繰り返しながら、ある一定の値に落ち着くことが説明されている。例えばライオンと野牛、オオカミとシカ、カニとカキをはじめとして多くの関係で成り立つそうだ。

また、被捕食者に捕食者がいる場合、捕食者がいない場合と比べて数が半減する。例えば、人間社会でも国の国民負担率が5割なこと、武士の取り分が農民の収穫量の5割までという五公五民。これ、も偶然ではなく、同じ構造をしているという。国民の上の国家、農民の上の武士という関係性。

こういう世の中の法則性みたいなものを知るのが楽しい。なぜこの数字に落ち着くのか? という疑問が数式でスッキリ解決されて、当然なんだと知る。抽象的にも「捕食者ー被捕者」の関係であれば、負担や取り分、数が半分に落ち着くことは理解できるが、数式があることでその構造が明確になり、階層が増えたとしても同じように理解することができるのがいい。3段構造の場合は1番下層が75%まで増えるのも面白い。

小川哲『小説を探しにいく』

先月号?を読んだときにも触れた。確か、将棋AIの判断形成機能が小説にも欲しい、というものだったはず。将棋AIは打った手から今後の展開を予想して、どっちが優勢か? の形成判断を下す。これを小説にも導入して、この話の展開なら面白くなるか? ということを判断したい、と書いていた記憶がある。これを広げて、将棋の定石と小説の展開の定石を比較したり、載せる雑誌の読者に特化して話を考えたりするなども書かれていた。

著者は具体と抽象の行き来がうまく、見習いたいと思っていた。今月号はまさに具体と抽象について書かれていた。小説家という職業を取り巻く構造を理解して、ベンチャー企業について応用して説明している。

小説家には出版社という投資家がいる。出版社が小説家に投資をするのは、「この人が書いた文章が売れるから」「これは世の中に広める価値がある」と見い出だしたから。そして、小説家が小説家を続けられるのは、出版社が見い出だした小説家を面白いと思い、作品を買ってくれる消費者がいるからだ。

この原理を企業に応用するなら、企業の事業を「儲かる」「生活を変えるものだ」と思ってくれる投資家がお金をくれるから事業を始められる。そして、企業が存続するのは、消費者が企業の事業に価値を感じてお金を払ってくれるからだ、となる。

これをさらに抽象化している。何かを生み出すものに対して、それを存続させるためにお金を出す存在がいる、と。

著者によると『ペスト』『一九八四年』『カラマーゾフの兄弟』も具体と抽象を行き来させた小説のようだ。『一九八四年』は読んだことがないが、監視社会が進んだディストピア小説だということは知っている。この未来も既にどこかで実現された監視社会をモデルにしていることになるのだろうか。『ペスト』もスペイン風の話だということは知っている。『カラマーゾフの兄弟』は名前だけ…。なんか登場人物が多すぎて人物関係がよく分からないとか、誰のセリフか分からないところがあって、そこから読みの解釈が変わると聞いたことがあるような、ないような。

ヤーレンズ・出井隼之介『300日』

芸人の書いたエッセイ。私はお笑いに興味がないので、はじめて名前を知った。読み進めるとM-1準優勝と書いてあるので、おそらくお笑いを見ている人は当たり前に知っている人なのだろう。

タイトルの「300日」は禁煙をしてからの日数なのだが、その300日の間に人生が激変したようだ。300日前は、二束三文のライブ出演料を握りしめながら帰宅し、代わり映えのない日々を送る毎日。そんな毎日を見るのも辛く、「売れたい!」「人生を変える可能性がある!」と嘆いていた。それがM-1で準優勝したことをきっかけに売れた。給料もたくさんもらい、生活は好転。家賃を多めに払ってくれていた女性と結婚して、広い家に引っ越した。家にはウォーターサーバーもある。そして『群像』にこんなエッセイも書いていると語る。

単純に1年かからずとも人生変わるかもしれないと考えるとモチベーションは上がる。何かやってみようと思える。

ちなみにタバコは何となくで止めたそうだ。おかけで1日1箱吸ったと考えて、今日までで14万円以上の節約にもなったようだ。だが、タバコを止めたことで一睡もできない辛い日があったそうだ。そう考えると、タバコは絶対に吸いたくない。もちろん、金銭的な面からも。

武田砂鉄『誰もわかってくれない─なぜ書くのか』

赤裸々エッセイについて。

書きたくないことはある、それは書かない、でも、書いていることに嘘はない。自分にそう言ってきた物書きの人がいて、なるほど正直な人だと思った。赤裸々と評されるタイプの書き手だが、その見せる裸は考え抜かれている。リアリティの作り方が、その人の中で完成している人は強い。そうではなく、裸を見せたほうがいいと促す世相に乗っかりすぎると、たちまち消費されてしまう。

P346
*太字は私によるもの

私が普段書いていることは赤裸々に近い。けれども、人間関係やシチュエーションには嘘を交えていることもある。嘘をいれているのは、身バレを防ぐためだ。私も公開したくないことはオフラインで書いているし、話をでっち上げて書いたことはない。そう考えると、私も「見せる裸は考え抜いている」のかもしれない。

世間の風潮に流され続けると消費されてしまう、というのは私が悩み続けている「読まれる文章か」「自分のための文章か」にもクリティカルに効く話と感じた。あくまでも「世相に乗っかりすぎると・・・・・・・・」なので、軽く世間に乗っかる、新たな手法を取り入れる意味で乗っかるのはありかもしれない。しかし、そこに自分を全BETするのは消費されるだけのものになってしまう。何事もほど程に、ということなのだろう。

新田啓子『セキュリティの共和国 戦略文化とアメリカ文学』

警察が行う巡回の起源には、スレイブ・パトロールがあることを知った。黒人奴隷を働かせている場所から逃げ出さないように巡回して取り締まっていた。また、現代の警察官が有色人種に対して暴力的になる根源をスレイブ・パトロールに見る見方もあるようだ。

近しい例の「巡回」と言えば、先生の巡回がある。宿泊研修や修学旅行で生徒が夜中に外出しないように見回りをする。この場合の巡回もスレイブ・パトロールと同じく、誰も逃げ出さないようにするために行っていると考えることができる。

ふと思い出したのは、警察の派出所制度は日本発祥で、海外にはなかったと聞く。巡回と言えば、派出所の警官が見回りをするイメージがある。スレイブ・パトロールが巡回の起源にあるならば、見回りをするための施設を近くに作ったほうが便利だったはず。例えば、農場から逃げ出した奴隷がいることを管理者が近くの派出所に知らせ、探してもらうことができただろう。なぜ作られなかったのか気になるところではある。

宮地尚子『やっぱりあらゆることは今起こる』

柴崎友香『あらゆることは今起こる』の書評が書いてある。書評者が書評を書くことに困っていて、そのモヤモヤを晴らすような書評になっている。「なぜ書けないのか?」「なぜまとまらないのか?」その思いの丈を7つの理由に分けて書いている。

評者が「書評っぽくない書評っぽくない」と書いているが、実際に雑誌に掲載されているのだがら、書評として編集部が認めたということになる。

せっかくの機会なので、「書評」について調べてみた。

簡潔に書けば、「感想文」は自分のために書くもので、「書評」は誰かのために書くもの。という内容が多かった。

感想文は自分がその本から学んだことを書けばいいが、書評はその本について知らない人に向けて内容を伝えつつも、自分の意見を加えることが必要。

書いてきた読書感想を振り返ってみれば、正確な内容に基づいて論じられているかと言えば全く自信はない。なので、私としては「感想文」の体を装っている方が間違いなく安全。感想文なら別に間違ってもいい。
(私は全体を把握した上で、どこの部分について論じていると説明することが苦手。)

渡邊英理『翔ぶことを夢見る「女たち」のために』

小川公代『翔ぶ女たち』の書評。中でも、以下の部分が気になった。

「男」は家の外でお金を稼ぎ (care about)、「女」は家の内で家事に従事する(care for)。経済的な尺度が専制する社会――市場で価値を生むかどうかを絶対視しがちな資本主義社会――では、商品価値を生む家の外での「男たち」の生産労働が、「女たち」の再生産労働に優越するものとして序列化されている。

p504

ダッシュで囲まれた部分にハッとさせられた。家事労働はお金を生まないから、家の外でする仕事よりも価値が低い、という考え。例えば、家の食器洗いと、飲食店の食器洗いだったら、飲食店でやる食器洗いの方が価値が高いのか? と思った。同じ労働をしていたとしても、家の内か外で価値が変わるのか? と。

少し拡大して考えると、テレワークは家の中でやる仕事で、オフィスワークは家の外で行う仕事。どちらも同じ仕事をしていたとしてもオフィスワークの方が価値が高いのか? 「家の中でやっている」ということだけであらゆる労働が下に見られているような気がする。

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