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求む、檸檬爆弾

「近所の農家さんからいただいたの」
食卓の端にあるカゴには、立派なレモンがごろごろと乗っかっていた。

母はこれらをどう食べたらいいものかと、考えあぐねているようだった。
わたしはふうん、と相槌を打ちながら、ふと、梶井基次郎著の『檸檬』を思い出した。

昔から根っからのド文系だったわたしは、高校生のころ特に現代文の授業が好きだった。その際に『檸檬』に関する感想文だったか考察文だったかを書きましょうという課題で、我ながら結構気にいるものが書けた。先生からも満点をもらい、みんなの前で朗読された作品だ。それが嬉しかったのもあるが、どのくらい気に入っているかというと、わざわざスマホで写真まで取ってどこかへ消えてしまわないように保存しておいているくらい。折角なのでここに残しておこうと思う。正直noteには文章の才能がある方が多くいるので、若干恥ずかしくはあるのだが……まあいっか。よければぜひ一度、『檸檬』を読んでから以下の文に目を通してほしい。

 ずっと思っていたことがある。何故、作者である梶井基次郎は「檸檬」という書き方をしたのか、と。「れもん」でも「レモン」でもなく、「檸檬」である。普通はこんな表記の仕方はしないだろう。時代のせいだといってしまえばそうなのかもしれないが、私はこれについて考察してみた。
 結論から言ってしまえばあの一文に尽きる。「――つまりはこの重さなんだな。――」作者は文中でしきりに「不吉な塊」だとか「重苦しい場所」などと言った、重みを感じさせる表現を使う。そんなものを全て壊してくれるのが「檸檬」だったのだ。病気に苦しむ憂鬱な日々を壊すのに、「れもん」では頼りない。「レモン」では軽すぎる。「檸檬爆弾」、なんと素敵な響きだろう。作者もきっとそう思ったに違いない。作者の言う「この重さ」の中には、おそらく「檸檬」という字のもつ重厚感、言ってしまえば気高さが含まれているのではないかと私は思う。

わあ。今読み返しても割と好き。高校生のくせにこましゃくれた文章書きやがって笑。 でも、うん。わたしはこの頃から、何かしら感じ取ったものを勢いのままに「書い」たり、「描い」たりすることが多かった。

今はまさに、爆弾が欲しい。未来に対する漠然とした不安を、自身に対するいら立ちを、どこに向けたらいいのかわからないやるせなさを、全てぶち壊してくれるような。そんな檸檬爆弾を、待っている。

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