生きがいがあってもなくても人生は生きているだけで丸儲けなのだ
ミイコさんから、素敵なお題をいただきました。
朝井リョウさんの『死にがいを求めて生きているの』読んでの感想の記事なのですが、とっても示唆に富む記事で、私も大いに刺激を受け、こんな感想を書きました。
ここで、ミイコさんからお題が出されたのです。
教師側の忸怩たる思い
私が教員になったのは、平成元年。
新学習指導要領がそれまでの『詰め込み教育』から『ゆとり教育』に舵を切ったと囃し立てました。
「これからの時代は宿題を押し付けるのではなく、個性を伸ばすのです」
当時の教頭の言葉に、違和感を感じたのを記憶しています。
学習指導要領で言っているから、宿題がどうのとか言われても、必要があれば、出す。
そう心の中で呟いた記憶があります。
やる気を育み、個性を伸ばすのはいつの時代でも変わらないことではないか。
元に、私が教師を目指すきっかけになった先生は、
厳しいけれど、なぜかやる気を育むのがうまかった。
学力の低い子も頑張って勉強に取り組むように変容していた。
何を言いたいかというと、良い教育を行う先生は、学習指導要領がどうかわろうが、人を惹きつける魅力があり、子供たちをやる気にさせ、教え育む技術を持っていたということです。
教育には不易なることと流行が存在します。
文科省の官僚たちも、そんなことは重々承知をして学習指導要領を改訂しているはずです。
ところが、その理念が、末端に伝わるとあたかもそれが金科玉条のごとく奉られる風潮をかんぜずにはいられない。
少なくとも現場にいた私は、そんな違和感を感じていました。
現在でいうと、GIGAスクール構想で、『タブレットの有効活用』に違和感を感じています。
とにかく、タブレットを活用せよ!
なんでもかんでもデジタル化。
教科書もデジタル化?
本当にそれって必要なこと?大丈夫なの?
日本って、どうもどちらか一方に、極端に走り過ぎるところがあるのではないか?
教育現場において、いつもそんな違和感と危機感を感じています。
だから、わざと逆を考えれば、ちょうど良い感じ、すなわち『中庸』になるのではないか。
『ゆとり教育』が強調されれば、あえて、訓練的な部分も強調してみる。
『ゆとり教育』の脱却が叫ばれれば、逆にゆとりを心がける。
そして、自分なりたどり着いた教育の心情が『心の根っこを伸ばす』というものでした。
自ら学び、自らの人生を切り開く基礎を育む。
これこそが義務教育の役目だろうと。
そして、『心の根っこを育む』ことは、学校教育に限らず、一生涯をかけて伸ばし続けていくものだろうと。
そんな不易であり本質的を持つことによって、教育においての『中庸』を自分なりに保ってきたように思います。
オンリーワンが新たな苦しみになっていたなんて
さて、私も『死にがいを求めて生きているの』を実際に読んでみました。
まず、感じたのは、
そんなに深く考えたことなーい
という軽い感想です(笑)
ミイコさんは『お金』にフォーカスするという、私からすると面白い価値観を持っていたために、
『自分が何者になるか』
について悩まなかったように、私は『教師になる』と早々に決めていたために悩んだことがないんです。
だから、小説の登場人物の心の葛藤に、感情移入をすることはありませんでした。
しかし、教員の立場から見た子供たちの様子と、小説の中で描かれている心の葛藤には『なるほど!』と納得することが多々ありました。
『受験戦争』なんて揶揄された昭和に比べたら、
試験の番号も張り出されない。
人と比べる必要もない。
なのに、何に悩むの?
なんて、ついつい思ってしまう。
でも、考えてみると
他人と比較できる数値の優劣は、数値の優劣でしかない。(テストの点数然り。陸上競技大会の記録も然り。)
しかし、絶対評価になると、ヘタをすると
『人間そのものが評価されている』と受け止めている(またはそう思って評価している)としたら、これは、数字の比較よりも残酷かもしれない。
この小説を読む進めているうちに、そんな思いが湧いてきました。
学校という閉鎖的な空間では、絶えず評価をされる。
教師から生徒へ。そして生徒同士。
評価とは本来、伸びていくためのフィードバックであるはずのも。
それがいつしか、人の価値に置き換わっていないか?
そんなことが暗黙の同調圧力になっていないだろうか。
この小説を読み進めながら、そんな思いも湧いてきました。
(年々増えている不登校も、そんな同調圧力と無縁ではないと個人的には感じています)
競争すると、負ける人がいるからかわいそう。
そんな理由で、徒競走を廃止したなんてニュースを聞いたものの、自分が務める学校でそんなことはありませんでした。
負ける人がかわいそう?
競技なのだから、勝ち負けがあって当然。
勉強は苦手でも、体育では活躍できる。
そんな生徒にとって、競争は格好の自己実現の場。
自分が認められる、活躍の場がどこかにある。
それが教育の理想だと思ってきました。
しかし、この小説を読んで思ったのは、
何をやっても結果が出ない
そう思っている生徒はどうしたらいいの?
ということです。
でも、そんな生徒にはこれから自分に合った何かに巡り合えるよう探していけばいい。
そんな風に考えていました。
しかし、この小説をさらに読み進めると、
そんな『生きがいを求める自分探し』こそが新たな悩みになっている現実。
そのことに気づかずに
『自分らしく』を押し売りしていたのではないか?
この沼の深さに改めて気付かされたのです。
他人と比べなくてもいい。
ありのままの自分で良い。
ナンバーワンより、オンリーワン。
しかし、そのオンリーワンがわからない。
だから、
『生きがいとは?』『自分とは?』と探し求め、彷徨う。
比較を求められないフォーマットのはずなのに、
『生きがいの有無』『自分らしさの発見の有無』があらたな比較の基準となって『生きがい・自分探しの沼』にハマっていく。
大人や社会は配慮しているようで、それが新たな同調圧力となって若者を追い詰めている残酷さ。
「ちゃうで、人生生きてるだけで丸儲けや」
人生を達観している明石家さんまさんのような方の言葉も、
「それは、人生を成功している人だから」
という視点で捉えると、若者の心には響かない。
こんなことを書いていると、
「あんたも、『自分らしさ』『生きがい』を見つけた側だから、そんな風に言えるのだろう!」
と言われるかもしれません。
確かに、自分は対して悩むこともなく、なりたかった教師になり、やりがいのある毎日を過ごしています。(そう感じています)
だから、他人との比較で悩むことなんてなかった。
なんてことはなく、比較の沼に落ち込んだこともありました。
例えば、教師としての指導力・信頼の比較。
この、noteにおいてすら、
フォロワー数やスキの数の比較にとらわれたこともあります。
でも、あれ?
そんなことどうでも良くなった自分がいます。
では、どうやって?
視点のコペルニクス的転換は自分にフォーカス
私は、より良い成果を上げることで、自分を安心させようと努力を果さねてきました。
しかし、目標を持って頑張っても、頑張っても、上には上がいます。
目標を達成し、頂上に辿り着いたと思っても、見上げるとまた山がある。
いくら登っても、登っても上が見えないのです。
そして、いつも、他人と比較し
「自分は○○が足りない。もっと努力しなければ」
と思っていました。
しかし、ある時わかったんです。
クローンじゃないんだから、他人と違って当たり前。
それが、大前提。
その上で、わかったんです。
他人が人生をつくっているわけではないと。
結局は自分が見たいように世界を見ている。
つまり、全部自分次第。
自分の思考が変われば、全部変わるのです。
自分が自分の人生を生きている。
まあ、簡単にいうと内省です。
常に自分の内側にフォーカスするようになったのです。
すると、足りないことよりも、今あることに気づくんです。
そして、物事はなるようになるという思いに至ったのです。
山登り型の人生もあるけれど、川を流れていくような人生もある。
大海原を風の赴くままに進んでいく人生もある。
どんな人生でもいいんです。
で、やっぱり、思ったんです。
人生生きてるだけで丸儲けだと。
そんな視点で人生を見れるようになったのです。
すると、不思議なもので、他人のことがあまり気にならなくなりました。
人は人、自分は自分。
ご縁によって互いに影響を受け合っているけれど、人それぞれのオリジナルの人生を歩んでいる。
今回の記事は、期せずしてミイコさんから投げかけられたお題。
こういうご縁が人生を豊かにしてくれます。
ミイコさんのおかげで、朝井作品を読み、新たな気づきを得ることができました。
ミイコさんありがとうございました。
☘️最後まで読んでいただきありがとうございました。
☘️素敵なご縁に感謝です。
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