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どっちが先でもそないに変わらんやろ、って思うお話。

美味しいパンが先か。
それとも美味しいコーヒーが先か。

そんな会話をどこがで聞いたことがある。

そないなもんはどっちもそこにあるんやさかいにどっちが先でもええやないけ?
というガサツな人間には
特段意味のない話なのかもしれない。

しかし繊細な人間には感じるところがある。

"美味しいコーヒーと美味しいパン"
"美味しいパンと美味しいコーヒー"

美味しいコーヒーを主軸に
美味しいパンがある世界観。

美味しいパンを主軸に
美味しいコーヒーがある世界観。

おいおいおいおい。
やっぱりどっちもあるんやないかい。
そないなもんはさっきも言いましたけど
どっちでも同じやないか。

っとまあ
そんなガサツな人はもうここにはいないと
信じて話を進めてみよう。

なんとなく誰かがふと発した言葉に
違和感を覚える時と共感を覚える時がないだろうか。それがほとんど同じことを言ってるはずなのに何かが違う。
そりゃ言ってる人が違うってのが大きい要因なのだろうがでもそれでも何かが違う。

あの店には
美味しいコーヒーと美味しいパンがあるのよ。
と聞いた時と

あの店には
美味しいパンと美味しいコーヒーがあるのよ。
と聞いたときでは
想像する絵が変わりはしないだろうか。

全く同じような文章や言葉を見聞きしたときの理解の齟齬はこんな感じで生まれるのだろうか。

パンを先に発した人間の世界観と
コーヒーを先に発した人間の世界観との間に
齟齬があるように。

そしてそうであるなら
なるほど、会話の食い違いや理解、認識の違いはあって至極当然の末路であり、それを楽しみながら許せる人が、大きな器のある人と称されているのが現世なのだろうか。

もしそうであるなら
そんな齟齬にイチイチ腹を立てて怒っている人間はとてつもなくバカだということになりやしないだろうか。

もしそうなら
そんなバカがたくさんいるおかげで
齟齬を許すという"だけ"の行動をとっている"だけ"の人間が器がでかいと称されて大きな得を得ているのか現世だということになりやしないだろうか。

そしてこれがもし本当にそうであるなら
今すぐ当たり前に蔓延る齟齬に
みんながイチイチ腹を立てないことで
たった今現在器がでかいと称されている人が
並の人間へと格下げされる世の中がくるんじゃないだろうか。

あの店には
美味しいコーヒーとパンがあるのよ。

あの店には
美味しいパンとコーヒーがあるのよ。


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