異なる意見の人へ、面と向かって意見を言えますか?
図書館で借りて、夜の隙間時間にちょこちょこ読み進めてきた本。
夢中になって読みました。
読み終わる前に買えば良かった!と思う程、付箋がいっぱいです(笑)
私が関心を抱いている「政治」について、日本とは距離感が全く違う事に驚かされた。
でも、そんな事よりも。
自分の生活に近い所で、気になった事があった。
それは「人格と議論を分ける」という事。
教育風景の違い
北欧の教育現場では、議論の練習をさせる場面がとても多いそうだ。
高校の社会科の授業では、教科書は殆ど使わずテーマが書かれたプリントを配布されて皆で意見を話し合う。
テーマはこんな感じ。
また、授業中にインターネットで検索をするためにパソコンを使用する事は生徒の自由らしい。
一方で日本の授業はどうだろう?
イマドキの「高校の授業風景」は分からないけれど。
一般的な学校で北欧の様な授業風景があるとは思えない。
先月、長男(小1)の授業参観で「子供の権利学習」という意見を発表するスタイルの授業があったけれど、明らかに「模範的な回答」「先生が良しとする正解」がある事を感じた。
そもそも、先生が前に立っていて指名された人だけが意見を言えるのは「議論」ではないよね。
人格と議論は別のもの
北欧では、議論や教育現場で
「パーソナルにとらえないように(人と議論は別のもの)」という前置きをよく耳にするそうだ。
日本人にとって、これはかなり難題だろう。
好きなアーティストの違い位であれば「そうなんだね~」で終わりだけれど、学校でも社会でも「自論が異なる人と対話を重ねて物事を進めていく」という事ができる人はそんなに多くないのではないか。
誰もが「論破してやろう」とは思っていないだろうけど、自分が拘っている点について意見が合わない人とは距離を置いてしまう事がある。
私はそれを否定できない。
それこそ、営業という仕事をスタートした時に研修でよく言われていた。
でも、長い学校生活で「一方的に話を聞く」「模範解答をすれば良しとされる」「一致団結」「みんな仲良く」を叩き込まれていると、自分の働きかけが受け入れてもらえなかった時に「気にしない」なんて、難しい。
会社の中でも、上層部が「毎週月曜日に全員参加の〇〇ミーティングを開こう!」なんて言おうものなら、現場レベルでは「無駄」「やりたくない」と思っていても誰も「何のためにそんな事するんですか?」と問う事すらできない。
それは上層部の意見を否定しているのではなく、理由を聞いているだけだ。
本当なら問うだけで終わらず、自分には必要がないと思う理由まで言える位じゃないと、権利が暴走してしまう。
そして保護者という立場になれば、学校の運営に対して、PTAに対して、色々な「疑問」が湧いてくる。
でも「角が立つ」「黙ってやり過ごした方が平和だ」と思ってしまう。
2024年の学びのテーマに
noteを書くようになってから、本を読んで一過性の気づきではなく自分はどうすれば良いのか?
と考えられるようになりました。
今日はあくまでも「感想」であり、自分がどうすれば良いのか?という結論は出なかった。
でも、「対話」とか「議論」は言葉の選び方、メンタルケア等スキルや慣れの部分が大きいと思う。
幸いにもAmazonでポチっていると「関連本」が沢山出てくる。
色々学んで、影響力の小さな所から試してみようと思います。
最後までお読み頂き有難うございました。
今日も素敵な一日になりますように☆彡
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