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ドストエフスキーについて

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情欲について―『カラマーゾフの兄弟』再読(2)―

情欲について―『カラマーゾフの兄弟』再読(2)―

『カラマーゾフの兄弟』の第三編は「好色な男たち」と題されている。
この編に関連して考えてみたいテーマは「情欲」である。
というのも、同編には、カラマーゾフ家の長男ドミートリーが三男アリョーシャを相手に非常に長い告白を行う場面があり、その告白の中で、まさに「情欲」について雄弁に語っているからだ。

ドミートリー(以下ミーチャという愛称を用いる)は、その長い告白をなぜかシラーの詩の引用から始める。そし

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『カラマーゾフの兄弟』再読(1)

『カラマーゾフの兄弟』再読(1)

これが三度目か四度目か分からなくなってしまったが、久しぶりに『カラマーゾフの兄弟』を読み返している。



再読のきっかけの一つは、少し前に加賀乙彦の『ドストエフスキイ』を読んで驚いたことだ。
同書で加賀は、『カラマーゾフの兄弟』のイワンが容貌や容姿の特徴を欠いている、すなわち「顔形、目の色、背の高さ、いっさいが不明」であると指摘していた。
三兄弟の次男、つまり主人公たちの一人であり、小説の中で

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加賀乙彦『ドストエフスキイ』

加賀乙彦『ドストエフスキイ』

加賀乙彦『ドストエフスキイ』(中公新書、1973)を読んだ。

加賀は「ドストエフスキイの文学を解く鍵の一つは癲癇である」と言う。

「あとがき」でも強調されるこのような立場から、ある疑いを抱いてしまいそうになる。
著者は「ドストエフスキー文学の核心」に先立って「まずてんかんありき」という固定観念にとらわれていなかっただろうか?

たしかに、ドストエフスキーには「てんかん」という固有の疾病があった

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(11)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(11)

終わらない「問い」『罪と罰』のエピローグで、作者は、ラスコーリニコフの更生が徐々にはじまりつつあることを述べて、小説を終えた。

このラスコーリニコフの更生の過程は、作家自身の監獄での体験から生じた精神的過程、おそらく自己と民衆とを隔てる深淵の超克に向けた自己変容の過程と重なるものであったのではないか?

筆者は、前回の最後にそのような推測に言及した。
そのように推測する理由のひとつは、監獄内のド

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(10)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(10)

エピローグ『罪と罰』の本編は、ラスコーリニコフの自首の場面で終わり、その後日談として短い「エピローグ」が付いている。

エピローグでは、ラスコーリニコフの裁判の経過と判決(八年の徒刑)、妹ドゥーニャの結婚と母の死、シベリアの監獄での生活、その監獄のある町に移住したソーニャの暮らしぶりなどが淡々と描かれる。

このエピローグは、記述は簡潔ながら、その内容は非常に豊かな充実したものであり、引用を始める

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(9)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(9)

リザヴェータはなぜ殺されたのか?第6回で述べたように、ラスコーリニコフはソーニャへの罪の告白によって、束の間、自己を脅かす苦悩から癒され、息を吹き返す。
それは、あらゆる人間から切り離され、もはや誰ともつながることができないと感じていた主人公が、ソーニャとの間で人間的なつながりの回復を実感したためにほかならない。

なぜそのような「奇跡」が生じ得たのだろうか?
実は、そこに「リザヴェータが殺された

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(8)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(8)

ラスコーリニコフと神前回までに置き去りにしてきたいくつかの問題について、気の向くままに考えてみたい。

まず、ラスコーリニコフは神を信じていたか?

このような問題設定は、馬鹿げたものに聞こえるかもしれない。ラスコーリニコフ本人の自覚において、彼が神の存在を信じていなかったことは明白だからだ。
そもそも、彼の恐ろしい犯行は、信仰の不在ゆえに企図され得たのだ、と言うことができる。

とりわけ、ラスコ

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(7)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(7)

アリョーシャの絶望と再生ドストエフスキーは『罪と罰』において「神をつうじた人間どうしの絆」という観念を暗示していた。そのような仮説への確信をさらに深めてくれる情景が『カラマーゾフの兄弟』の一場面に描かれている。

それは、カラマーゾフ家の三兄弟の末っ子、アレクセイ・カラマーゾフ、すなわちアリョーシャにとってのクライマックスと言える場面である。

修道院に暮らす若き修道僧のアリョーシャは、自らの師で

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(6)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(6)

ソーニャの直観神との絆を自ら断ち切ったことによって、あらゆる人間から切り離されてしまったラスコーリニコフの運命を、直観的に把握した登場人物が存在する。それが、ソーニャ・マルメラードワである。

ラスコーリニコフは、まだ取り返しのつかぬ犯罪に手を染める前に、酒場で偶然知り合った酒浸りの元官吏マルメラードフから、彼と前妻との間の娘であるソーニャの不幸な身の上を聞くことになる。
ソーニャは、貧しさのどん

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(5)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(5)

糸杉と銅の十字架ラスコーリニコフは、自ら神との絆を断ち切ったために、この世の誰ともつながることができなくなったのだ。そのような仮説の「裏付け」となるようなディテールを、さらに一つ一つ積み重ねていくこととしよう。

 前回に続いて、犯行の現場に注目したい。

ラスコーリニコフは、老婆を斧で撲殺した後、室内で金目の物を物色しながら、不意に不安に襲われ、老婆が間違いなく死んでいるか、かがみこんで検分する

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(4)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(4)

断ち割る者
数年前に、渋谷の Bunkamura シアターコクーンで、『罪と罰』の舞台を観た。
ロイヤル・シェークスピア・カンパニー出身のイギリス人演出家による作品で、ラスコーリニコフ役は三浦春馬(合掌!)、ソーニャを大島優子が演じていた。劇場はほぼ満席で、意外なことに若い女性客が多数つめかけていたのは、どうやら三浦春馬がお目当てのようだった。

舞台の出来栄えについては、全体としては、特に可もな

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(3)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(3)

仮説ドストエフスキーは、処女作『貧しき人々』を二十三歳で書き、当時の著名な批評家であったベリンスキーに絶賛され、鮮烈な文壇デビューを果たした。
ドストエフスキーは、『作家の日記』において、この時ベリンスキーから受けた賞賛と激励が「自分の生涯における荘重な瞬間、いわば一つの転機」となり、「自分はベリンスキーの賛辞に値する人間になろう」と誓ったと、回想している。

ベリンスキーの賛辞とはどのようなも

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(2)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(2)

様々な解釈『罪と罰』で提起されたこの「謎」、この「感覚」について、著名な研究者・批評家はどのような説明をしているだろうか。

以下では、この「感覚」に注目し、あるいはなんらかの解釈を行っている先行研究の事例として、文芸評論家の小林秀雄(1902-83)、ともにロシアの哲学者・思想家であるニコライ・ベルジャーエフ(1874-1948)及びレフ・シェストフ(1866-1938)、ロシア文学者の江川卓(

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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(1)

ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(1)

今回から計10回程度(予定)にわたり、極「私」的・独善的な『罪と罰』論を投稿しようと思う。

なぜ自ら「独善的」などと自虐めいたことを言うかというと、実は、この『罪と罰』論を、2020年度及び2021年度の2回にわたり、それぞれ異なる評論文学賞に応募したのだが、ともに最終選考に残ることもなく、あえなく落選したからだ。

筆者としては、これこそ『罪と罰』の画期的な解釈であると、秘かにうぬぼれていたの

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