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情欲について―『カラマーゾフの兄弟』再読(2)―
『カラマーゾフの兄弟』の第三編は「好色な男たち」と題されている。
この編に関連して考えてみたいテーマは「情欲」である。
というのも、同編には、カラマーゾフ家の長男ドミートリーが三男アリョーシャを相手に非常に長い告白を行う場面があり、その告白の中で、まさに「情欲」について雄弁に語っているからだ。
ドミートリー(以下ミーチャという愛称を用いる)は、その長い告白をなぜかシラーの詩の引用から始める。そして、それらの詩句の中の
「情欲は虫けらに与えられたもの!」
という一節をことさら強調しつつ、次のように述べる。いきなり長い引用で恐縮だけれど、ご容赦いただきたい。
俺はね、この虫けらにほかならないのさ、これは特に俺のことをうたっているんだ。そして、俺たち、カラマーゾフ家の人間はみな同じことさ。天使であるお前の内にも、この虫けらが住みついて、血の中に嵐をまき起すんだよ。これはまさに嵐だ、なぜって情欲は嵐だからな、いや嵐以上だよ! 美ってやつは、こわい、恐ろしいものだ! はっきり定義づけられないから、恐ろしいのだし、定義できないというのも、神さまが謎ばかり出したからだよ。そこでは両極が一つに合し、あらゆる矛盾がいっしょくたに同居しているからな。俺はひどく無教養な人間だけれど、このことはずいぶん考えたものだ。恐ろしいほどたくさん秘密があるものな! 地上の人間はあまりにも数多くの謎に押しつぶされているんだ。この謎を解けってのは、身体を濡らさずに水から上がれというのと同じだよ。美か! そのうえ俺が我慢できないのは、高潔な心と高い知性とをそなえた人間がマドンナの理想から出発しながら、最後はソドムの理想に堕しちまうことなんだ。それよりももっと恐ろしいのは、心にすでにソドムの理想をいだく人間が、マドンナの理想をも否定せず、その理想に心を燃やす、それも本当に、清純な青春時代のように、本当に心を燃やすことだ。いや、人間は広いよ、広すぎるくらいだ、俺ならもっと縮めたいね。何がどうなんだか、わかりゃしない。そうなんだよ! 理性には恥辱と映るものも、心にはまったくの美と映るんだからな。ソドムに美があるだろうか? 本当を言うと、大多数の人間にとっては、ソドムの中にこそ美が存在しているんだよ――お前はこの秘密を知っていたか、どうだい? こわいのはね、美が単に恐ろしいだけじゃなく、神秘的なものでさえあるってことなんだ。そこでは悪魔と神がたたかい、その戦場が人間の心なのさ。……
最初に、「情欲」と訳された言葉について確認しておきたい。
「情欲」は、ロシア語原文では ‘сладострастье’ という名詞である。この語を辞書で引くと「色欲、情欲」という訳語があてられている。
このロシア語の名詞は、語源的に ‘сладо’ + ‘страстье’ であることが容易に想像できる。‘сладо’ は ‘сладкий’ すなわち「甘い、甘美な」という意味の形容詞の語幹であり、‘страсть’ は「情熱」を意味する名詞である。したがって、‘сладострастье’ とは、英語で言い換えれば ‘sweet passion’ となる。
(念のために言うと、以上は厳密な言語学的裏付けがあるわけではなくて、あくまで直観的な推測である。)
さて、‘sweet passion’ と聞くと、あまり否定的なニュアンスは感じられないが、日本語の訳語の「色欲、情欲」はどちらかと言うと負のイメージがある。また、ロシア語の ‘сладострастье’ の方も、ミーチャの告白の文脈から判断する限り、背徳的で、低俗な、なにかいかがわしいもの、というニュアンスを帯びていると考えられる。
ちなみに、第三編のタイトルの「好色な男たち」は、ロシア語原文では ‘Сладострастники’ であり、この語が ‘сладострастье’ から派生した名詞であることは明らかである。
そうとなれば、ミーチャの告白の中で熱く語られる「情欲」とは、第三編の重要なキーワードであるということが、タイトル自体からも読みとることができる。
言うまでもなく「好色な男たち」とは、カラマーゾフ家の面々を指している。
「俺たち、カラマーゾフ家の人間はみな同じことさ。天使であるお前の内にも、この虫けらが住みついて、血の中に嵐をまき起すんだよ」
*
前置きが長くなったが、上で引用したミーチャの言葉をじっくりと味わってみたい。
まず興味深いのは、ミーチャが「情欲」を「美」と強く結びつけていることである。果たして「情欲」と「美」はどのように関連づけられるのだろうか?
もう一つ、ミーチャは、「美」において「両極が一つに合し」ていると言う。その「両極」とは何を意味するのだろうか?
二番目の疑問から取り組もう。
ミーチャ自身の言葉の中でヒントとなるのは、「マドンナの理想」と「ソドムの理想」である。どうやらこれらは正反対の性格のものとして、すなわち両極に位置づけられるものとしてとらえられている。
上の引用では省略したが、新潮文庫では、「マドンナ」と「ソドム」について、直接本文中に括弧でくくる形で訳注が挿入されている。それによれば、マドンナは「聖母マリヤのこと」であり、ソドムは「古代パレスチナの町。住民の淫乱が極度に達し、天の火で焼かれた」とされる。
前者については補足するまでもないだろう。後者は、旧約聖書の「創世記」の中に登場する都市であるが、ここでは、さしあたり訳注にあるとおり「神罰により滅ぼされた」町という説明で十分であると思われる。
「マドンナの理想」とは、純潔、慈愛、崇高さ、品格、忍耐等を意味すると考えればよいだろうか。
一方で「ソドムの理想」とは何か? 「マドンナの理想」の対極にある「ソドム」的な概念としては、不純、冷酷、背徳、猥雑、貪欲等々が思い浮かぶが、果たしてこれらを「理想」と呼び得るだろうか?
呼び得るとしたら、それらは「情欲」にとっての理想であり、人間が情欲によって突き動かされ、向かっていく状態に伴う属性という意味ではないだろうか。とすれば「ソドムの理想」とは、ある意味で情欲が目指してしまう状態ということであろう。
どうやら、ここで、「美」と「情欲」が結びつくようだ。
つまり、ミーチャの告白は、「美」の二面性、すなわち高潔さ、崇高さ、気高さといった肯定的な側面と、背徳的、淫らさ、放縦さといった否定的な側面との共存について語っている、ということである。美が、「マドンナの理想」も「ソドムの理想」もあわせもっている、とはそのような意味なのだろう。
*
「美」の一方の側面は「情欲」と強く結びついている。
ところで、これは美によって情欲が刺激されるということだろうか? 言い換えれば、美が情欲に先立って存在するのだろうか?
ひょっとしたら逆ではないだろうか? むしろ、情欲の方が美に先立って存在している、それどころか、情欲は美の「源」なのではないだろうか?
つまり、人間の情欲こそが、美のふ化器であり培養基として、美を生み出すものである、ということだ。
乱暴な議論に聞えるかもしれないが、少なくとも、ミーチャの告白で問題とされているような「美」については、そうした考えがありうるように思う。
そして、もしそうであるのなら、そもそも「美」というものには、ソドムの理想が内包されざるを得ないのだ。
ミーチャが、「マドンナの理想」より「ソドムの理想」の方に強く惹かれるのは、(繰り返しになるが)それこそが「人間が情欲によって突き動かされ、向かっていく状態」であるからだ。
「本当を言うと、大多数の人間にとっては、ソドムの中にこそ美が存在しているんだよ」
それでも、人間に与えられた「高潔な心と高い知性」は美の中に「マドンナの理想」を見出そうとせずにはいられない。また、信仰や良識によって裏打ちされた社会的通念も性的倫理の厳格さを美徳とみなし、乱脈を戒め、罰しようとする。
その結果、美を求める人間の心は、「マドンナの理想」と「ソドムの理想」に引き裂かれてしまうことになる。おそらく、そのような葛藤が、ミーチャの心に生じている、ということなのだろう。
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注目すべきことは、ミーチャにとって、「マドンナ」と「ソドム」が単なる比喩ではなくて、実は小説に登場する二人のヒロインであるカテリーナとグルーシェニカをそれぞれ象徴している、と考えられることだ。
カテリーナは、気位の高い、品行方正な、知性と教養をそなえた令嬢で、絶世の美人であり財産もある、文句のつけようのない女性である。
ミーチャは、カテリーナの一家が陥った絶体絶命の窮状を救ったことで、カテリーナの方からプロポーズされ、彼女の婚約者の立場にある。
もう一方のグルーシェニカは、町の有力者の老人の妾といういわくつきの悪女であるにもかかわらず、ミーチャは、その「素晴らしい曲線美」の肉体に魅せられて、「ペストにかかった」ように夢中になってしまう。
いささか図式的な構図ではあるが、血の中で情欲の嵐が暴れまわっているようなミーチャが、「マドンナの理想」に心を燃やしながら「ソドムの理想」に堕してしまう、つまり、カテリーナの気高い、神聖ですらある「美」を崇めながらも、グルーシェニカの悪魔的な「美」にひき寄せられてしまうのは、いわば必然的な成り行きであるのだろう。
*
ミーチャのように心の弱い、情欲に引きずられてしまう人間は、「マドンナの理想」と「ソドムの理想」の両極の間でどのように折り合いをつければよいのだろうか?
ひょっとしたら、ドストエフスキーにはそうした問題意識があったのかもしれない。
同じ場面のアリョーシャへの告白の中で、ミーチャは、ローマ神話の豊饒の女神ケレースが人間界の堕落を嘆く様子を詠んだ詩(やはりシラーの作品)を引き合いに出して、次のようにも語る。
……よく、恥さらしな放蕩のいちばん深いどん底にはまりこむようなことがあると(もっとも、俺にはそんなことしか起らないけど)、俺はいつもこのケレースと人間についての詩を読んだものだ。じゃ、この詩が俺を改心させただろうか? とんでもない! なぜって、俺はカラマーゾフだからさ。どうせ奈落に落ちるんなら、いっそまっしぐらに、頭からまっさかさまにとびこむほうがいい、まさにそういう屈辱的な状態で堕落するのこそ本望だ、それをおのれにとっての美と見なすような人間だからなんだ。だから、ほかならぬそうした恥辱の中で、突然俺は賛歌をうたいはじめる。呪われてもかまわない、低劣で卑しくともかまわないが、そんな俺にも神のまとっている衣の裾に接吻させてほしいんだ。一方では同時に悪魔にのこのこついて行くような俺でも、やはり神の子なんだし、神を愛して、それなしにはこの世界が存在も成立もしないような愛を感じているんだよ。
深い絶望の中からほとばしるような告白ではないか。
ミーチャは、みずから落ち込んだ堕落のさなかにあっても、神を信じ、愛することで心の均衡を保とうとしているかのようだ。
ソドムの理想に憑かれてしまった人間であっても、いやそんな人間だからこそ、神が存在しない世界はありえない、ということだろうか?
*
全然関係ないのだけれど、上の引用を入力していたら、ふと中森明菜の‘DESIRE’(阿木燿子作詞)の歌詞が浮かんできた。
まっさかさまに堕ちて desire
炎のように燃えて desire
そう言えば、英語の ‘desire’ には、まさに「情欲」の意味がある。
阿木燿子さん、お見事です!