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『カラマーゾフの兄弟』再読(1)
これが三度目か四度目か分からなくなってしまったが、久しぶりに『カラマーゾフの兄弟』を読み返している。
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再読のきっかけの一つは、少し前に加賀乙彦の『ドストエフスキイ』を読んで驚いたことだ。
同書で加賀は、『カラマーゾフの兄弟』のイワンが容貌や容姿の特徴を欠いている、すなわち「顔形、目の色、背の高さ、いっさいが不明」であると指摘していた。
三兄弟の次男、つまり主人公たちの一人であり、小説の中で間違いなく最重要人物の一人として位置づけられるイワンに外見的な特徴がいっさい与えられていないとしたら、これはやはり驚くほかない。加賀の指摘は本当だろうか? それを確かめたかった。
いまのところ、全十二編(+エピローグ)のうち第二編までほぼ読み終わっている。
第一編「ある家族の歴史」は、主としてドミートリー、イワン、アレクセイ(アリョーシャ)の三兄弟と父フョードルの関係をめぐる過去の経緯が回顧的に語られる導入部であり、第二編「場違いな会合」は、これらの登場人物が(家族間のもめごとの調停を目的として)町の修道院に集まり、ゾシマ長老のもとで一堂に会する場面を中心として、物語が動き始める部分である。
ここまでのところ加賀の指摘は間違っていないようだ。
第二編までに、主要登場人物である三兄弟とその父の四人のうちイワンを除く三人については、容貌、容姿の特徴が丁寧に描写されている。
それによれば、父のフョードルの特徴は「いつも厚かましく、疑い深く、せせら笑っているような小さな目の下の、だぶついた長いたるみ」「小さいけれど脂ぎっている顔に刻まれた、無数の深い小皺」「尖った顎にさらに、財布のように細長く肉の厚い咽喉仏」「唇のぼってりした、淫らがましい横長の口」「あまり大きくはないが、非常に細く、目立って段のついた鼻」(第一編 四、引用は以下も含め原卓也訳新潮文庫版より)である。
三男のアリョーシャは「頬が赤く、明るい眼差しをした、健康に燃えんばかりの、体格の良い十九歳の」「たいそうな美男子」で、「中背で均斉のとれた身体つき」「栗色の髪」「いくらか面長とはいえ端正な瓜実顔」「間隔の広くあいてついているダークグレイの目」を持ち「きわめて瞑想的な、そして見るからにたいそう落ちついた青年」(第一編 五)である。
そして長男のドミートリーは「中背で、感じのよい顔だちをした二十八歳の青年」であるが「年よりずっと老けて」みえ、「筋骨たくましく、並外れた体力の持ち主である」ことが察せられる一方で「その顔にはなにか病的なものがあらわれ」、「顔は痩せぎすで、頬がこけ、なんとなく不健康な黄色みを帯び」、「出っ張り気味のかなり大きな黒い目」は「強情さを内に秘め」ながら「どこか焦点が定まらなかった」(第二編 六)と描写される。
ところが、二人の兄弟と父親にはこれだけ詳細な外見上の特徴を与えながら、作者はイワンについては、その容貌や容姿に関する説明をなにひとつしていない。
第二編の終わりまでないのであれば、この先もおそらくまとまった外見描写はないだろう。加賀乙彦が指摘したとおり、イワンは「肉体を欠いた」人物として登場しているのだ。
これは実に不思議なことであると言わざるを得ない。
もっとも、この「事実」の意味や作者の隠れた意図について、今この場で軽々しく云々できるわけではないし、何らかの仮説なり、こじつけなり、出まかせを言うつもりもない。
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近所のBOOKOFFでたまたま上巻だけ見つけて(左)購入した。
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さて、興味深いのは、そのような身体的な特徴の欠如と裏腹に、物語が動き始める第二編において、ならず者で道化の父親フョードルが垂れ流す饒舌は別とすれば、三兄弟の中で最も雄弁な人物が実はイワンであるということだ。
(一方で、語り手=作者である「わたし」が「わが主人公」と宣言する三男のアリョーシャなどは対照的に寡黙であり、第二編の終わり近くになるまでほとんど意味のある言葉を発していない。)
ここで注目したいのは、ゾシマ長老の僧院でイワンによって語られる教会と国家の関係に関する議論である。ある聖職者の著書に反駁する論文を執筆し、雑誌に掲載されていたイワンは、会合に同席した修道司祭に水を向けられて、ゾシマ長老の前で自説を展開する。
イワンは、教会は国家の中でその一隅を占めるのではなくて「むしろ反対に教会が国家全体を内包すべき」であり、それこそがキリスト教社会にとっての「もっとも主要な目的」であると述べるのだ。イワンの議論の一部を直接引用したい。
「……(古代ローマにおいて)キリスト教会は国家に編入されはしたものの、疑いもなく、自己の基盤、つまり自分の拠りどころにしている礎石から何一つとして譲るわけにはいかなかったし、また教会が達成しようと努めうるのは、いったん主によって確然と定められ指示された目的、なかでも全世界、したがって古代の異教国家全体を教会に変えてしまうという目的以外の何物でもなかったのです。というわけで、将来の目的においては、僕の論敵が教会に関して言った言葉を借りるなら、教会が『あらゆる社会的団体』や『宗教的目的のための人々の結合体』として国家の中に一定の地位を求めたりすべきではなく、むしろ反対に、あらゆる地上の国家がゆくゆくは全面的に教会に変るべきであり、それも教会と相容れぬ目的をすでにことごとく排除したあと、教会になるほかないのです。……」
こうしたイワンの議論はその場に同席する修道司祭たちに概ね歓迎されているようだ。そのことからもイワンは、一見すると、教会の立場、利害を強く支持する意見を表明しているような印象を受ける。
これに対して、カラマーゾフ家の人々ともにゲストとして修道院に招かれた親戚筋(ドミートリーの亡くなった母の従兄)のミウーソフは、進歩的な西欧主義者かつ無神論者として一矢報いようと考えたのか、イワンが町の社交界の集まりで上流婦人たちを前に得々と話したとされるスキャンダルめいた発言を暴露する。
ミウーソフによればイワンの発言とは、次のようなものだ。
この地上には人間が人類を愛さねばならぬという自然の法則など存在せず、かりに現在まで地上に人間への愛が存在したのだとしても、それは「自然の法則によるのではなく、もっぱら人間が自分の不死を信じていたからに過ぎない」。
人類が抱く不死への信仰を根絶すれば、とたんに愛も、生命力すらも枯れ尽き、そうなると不道徳なことなど何一つなくなり、人肉食いさえも許される。
現代人のような神も不死も信じない個々の人間にとっては、自然の道徳律は従来の宗教的なものとは正反対であるべきで、その場合、悪行にも等しいエゴイズムは、人間にとって許されるばかりか、最も合理的で必然的な帰結として認められるべきですらある。
ミウーソフの告発を聞いたゾシマ長老から「あなたは本当にそのような信念をお持ちなのですか?」と問われ、イワンはきっぱりと答える。
「ええ僕はそう主張してきました。不死がなければ、善もないのです。」
このイワンの主張は、一般に「もし神が存在しなければすべてが許される」と要約される有名な命題にほかならない。
果たしてイワンの本心はどちらにあるのだろうか?
国家に対する教会の優越を唱える敬虔なキリスト者の立場なのか、それとも神も不死も信じず、エゴイズムを肯定する合理的な近代人の立場なのか?
上のイワンの「宣言」に続く、ゾシマ長老との会話を続けて引用しよう。
「もしそう信じておられるなら、あなたはこの上なく幸せか、さもなければ非常に不幸なお人ですの!」
「なぜ不幸なのです?」イワンが微笑した。
「なぜなら、あなたは十中八、九まで、ご自分の不死も、さらには教会や教会の問題についてご自分の書かれたものさえも、信じておられぬらしいからです」
「ことによると、あなたのおっしゃるとおりかもしれません! しかし、それでも僕はまるきり冗談を言ったわけでもないのです……」突然イワンは異様な告白をしたが、みるみる赤くなった。
「まるきり冗談を言われたわけでもない、それは本当です。この思想はまだあなたの心の中で解決されておらないので、心を苦しめるのです。……(以下略)」
イワンは、近代的な合理的精神の持主として、神や不死に対する信仰を無批判に受け容れることを自分に許すことができない。それでいながら、神や不死の不在が人間にとってどれほど恐ろしく耐えがたいことであるかもよく分かっていた。そんな風に理解すればよいだろうか。
ともあれイワンの思想的立場は揺れていた。
どうやらゾシマ長老はそのことを鋭く見抜いていたようだ。ゾシマ長老はイワンに重ねて言う。「この問題があなたの内部で解決されていないため、そこにあなたの悲しみもあるわけです。なぜなら、これはしつこく解決を要求しますからの……」
これに続くイワンとゾシマ長老の問答も非常に重要である。
「ですが、この問題が僕の内部で解決することがありうるでしょうか? 肯定的なほうに解決されることが?」とイワンが問いかけ、
「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されませぬ」とゾシマ長老が答える。
もし肯定的な解決がなされないのであれば、否定的な解決もあり得ない。
肯定的な解決となにか? 神や不死を信じ、人類に対する愛や地上における善を信じることだろう。
反対に、否定的な解決とは、神や不死を否定し、宗教的な道徳律を唾棄すべきものと見なし、その結果、人間のエゴイズムの発現をあらゆる絶対的・道徳的な制約から解き放つことである。
ゾシマ長老の立場は明確である。人間にとって、後者の選択肢が解決策とならない以上、解決方法は自ずと前者のほうでしかありえないのだ。
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以上のような、イワンとゾシマ長老との対話はたいへん示唆に富むものである。
イワンの苦悩の意味とは何であったのか?
果たして神や不死は存在するのか?
そうした問題に人間はどのように向き合うべきなのか?
まさに物語が始動する冒頭の場面に置かれたイワンとゾシマ長老との対面において、小説全体の重要なテーマとなるそうした問題の「種」が巧みに蒔かれているのだ。
『カラマーゾフの兄弟』は起伏に富んだプロット自体を追いかけるだけでも十分面白いのだが、往々にして退屈と思われがちな、複雑で面倒くさい宗教的・哲学的な議論もたいへん興味深いものである。
実は、そのような議論の中にこそ、この小説に固有の、巨大な豊かさや深刻さを秘めた「力」が存在するのであって、そうした力が、世紀を二回越えてもなお読者の精神を揺さぶり続けるのではないだろうか。
第三編以降を読み返しながら、引き続き『カラマーゾフの兄弟』についての雑感を綴っていこうと思う。
もっとも、次回の投稿がいつになるか分からないし、ひょっとしたらかなり時間が空いてしまうかもしれないけれど。