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#193 西行の神仏習合【宮沢賢治とシャーマンと山 その66】
(続き)
西行は、日本の信仰の特徴的な形式である神仏習合に大きな影響を与えた人物とも言われている。今回の原稿でもたびたび登場し、日本の信仰を考える上で欠かすことのできないのが、神仏習合という信仰の形だ。
西行は25歳頃に僧として出家した後、30歳頃からの30年程度を、高野山に生活の拠点を置いていたと言われる。高野山は、空海が開いた真言宗の総本山でもある。しかし西行は、生涯にわたって高野山の教団に組み込まれた訳ではなく、前述したように、真言宗のライバルとも言える天台宗の慈円などとも交流を持っていた。そして60歳を超えてからは伊勢に移る。伊勢は、伊勢神宮で知られるように、神道の重要な聖地である。伊勢での西行は、伊勢神宮の神官たちの和歌の指導を行なっていたようだ。
天台宗の僧によって神仏習合の書「曜天記」が記されたのは、西行が生きた時代と同時代でもある。西行も自らの和歌の中で、日本語と、日本文化を育んだ空間を用いながら、グローバルな思想である仏教と、日本古来の信仰である神道の融合を試みていたとも言われる。僧でもある西行が、伊勢に暮らし、神官たちと積極的に交わっていたという点からも、神と仏の融合に対する西行の姿勢が伺えるのではないだろうか。
また、晩年の西行は、それまでに詠んできた歌の中から、秀れた歌を選び、伊勢神宮に奉納するという事業を行なっている。
このような西行の一連の行動が、仏教と神道を結びつける「本地垂迹思想」を推進する結果となり、神道と仏教が共存する上で西行が果たした歴史的役割は大きい、とも言われる。
これまで見たように、賢治の足跡を辿ると、西行や最澄、芭蕉などが登場することにも、不思議な縁が感じられ、同時に、西行自身が、これまで文章の中で何度も取り上げてきた日本の神仏習合という信仰の成立に多大な影響を及した人物と言われていることにも、不思議な縁を感じる。
西行が晩年を過ごした伊勢は、宮沢賢治と父・政次郎が旅をした地でもある。
【写真は、西行の歌集「山家集」(新潮社)】
(続く)
2024(令和6)年10月24日(木)