#196 賢治を取り巻く無数の信仰たち【宮沢賢治とシャーマンと山 その69】
(続き)
これまで見てきたように、明治維新以前の、驚くほどバリエーション豊かで、複雑に関連していて、かつ、当時の人々にとって身近だったと思われる信仰の形は、本当に興味深い。
そして、賢治とどれほどの関係があるかわからないとは言うものの、賢治はそれらの信仰にたいする、一定の、或いは、深い知識と理解を持っていたように思える。例えばそれは、天台宗比叡山延暦寺の中枢にある根本大塔の脇に、日蓮宗という他宗派を熱烈に信仰したとも言われる賢治の碑が立っていることに示されているのではないだろうか。
詳しい事情はわからないが、少なくとも、賢治の、最澄や法華経に対する深い理解なくしては、そのような事が実現することはないのではないだろうか。加えて、延暦寺を本山に持つ岩手・平泉の中尊寺・金色堂のすぐ近くにも賢治の碑がある。延暦寺とのつながりが金色堂脇の碑のきっかけとなったと聞いた記憶もあるが、詳細はわかない。
いずれにしても、賢治は幅広い信仰に対して並々ならぬ興味や関心を抱き、貪欲に吸収しようとしていたように見える。また、今回はあまり触れなかったが、国内だけではなく、海外の信仰も興味の対象となるとともに、思想や哲学も幅広く吸収しようとしていたようだ。
そして、比叡山への父子旅を見るまでもなく、父・政次郎も、賢治と同じように信仰や思想に対して深い興味を持っていたと予想される。宮澤家のエピソードとして、賢治と妹・トシ、父・政次郎が、著名な催眠術師のような人物をわざわざ家に招き、実際に催眠をかけられたというものがある。現在で言えばスピリチュアル的な領域にまで、賢治の家族が関心を持っていたというのも興味深い。
賢治やその家族の幅広い興味を支えた1つの要因には、宮澤家の豊かな経済力があり、他の家では到底真似ができない状況にあったのは確かだろう。
ただ、経済的条件を別としても、賢治や、妹・トシ、父・政次郎の、信仰に対する強い興味なしには、様々な信仰や思想が見え隠れする賢治作品が生み出されることもなかったであろう。
【写真は、平泉中尊寺金色堂脇の宮沢賢治詩碑】
(続く)
2024(令和6)年10月27日(日)